【連載】美学者 上野悠の「美学でひもとく世界」
伝統的スポーツとeSportsのちがい2

前回に引き続き、今回もeSportsとスポーツの違いに焦点を当てた論文を紹介いたします。今回の肝は「実行領域」と「適用領域」です。これだけじゃ何のことやらという感じがしますが、ざっくりいうと、リアルスポーツとeSportsの違いは、身体能力が発揮される領域とそれが反映される領域が同じか否か、という点に求められるというものです。
また、今回紹介するJason Holtによる論文は、伝統的スポーツ/eSportsの違いと、伝統的ゲーム/ビデオゲームの違いを同時に扱おうとする意欲的なものです。さらに、そうした展開を通して、バーナード・スーツによる古典的なゲーム(をすることの)定義に対してもメンションしようとしています。
ビデオゲームと伝統的ゲーム

ホルトの論文は、前半が伝統的スポーツとeSportsの違いについて、後半が伝統的ゲーム/ビデオゲームの違いとそれが示唆するスーツ論へのメンションという構成になっています。
ホルトの興味としては、ビデオゲームという形式が、スポーツやゲームの定番となっている定義ないしは理論に対して、興味深い反例を提供しているように見える点にあるようです。
ホルトの論文の構成は以下のようになっております。
(1) もしeSportsがスポーツとして認められるなら、それはスポーツの中心的な事例に最も近いもの、すなわち本質的に全身的な運動技能(gross motor skills)を伴うものに限られる。しかしながら、それを認めたとしても、以下の理由からeSportsをスポーツとしてみなすことを拒否する可能性がある。身体技能の「実行」の領域と「応用」の領域を区別すると、スポーツはその両方の非仮想的な地位を前提としているからである。
(2) チェスと同様、ビデオゲームは前提的目標(prelusory goals)を欠いているように見えるが、チェスの慣習や、ビデオゲームにおける目標の表面的な説明書き(nominal descriptions)は、バーナード・スーツの理論への適合可能性を示唆している。また、ビデオゲームのプログラミングに「チートコード」が含まれていることにも同様に適合可能性を見出すことができる。それゆえ、eSportsやビデオゲームは、結局は派生的な意味においてのみ、スポーツである可能性があるが、そのような場合、仮想的な領域は、単にゲームの内容とは独立的なものを表現しているに過ぎないと言える。それでも、仮想的環境がますます普通のものと見なされるにつれ、このような区別は恣意的なものに見えてくるだろう。
eSports

ホルトは、先行研究としてデニス・ヘンプヒルによる研究を参照します。ヘンプヒルは「サイバースポーツ」という用語を用いていますが、これはだいたい現在で言う、eSportsと同じようなものを指すと捉えて構わないかと思われます(以下では、場合に応じて使い分けますが、同じことを指していると思ってください)。
サイバースポーツについて、ホルトは、この語が「スポーツのビデオゲーム・シミュレーション」と「スポーツとしてのビデオゲーム・シミュレーション」という二つの意味が考えられることを指摘しています。この指摘は重要です。そのうえでホルトは、ヘンプヒルは前者に焦点を当てて、「スポーツのビデオゲーム・シミュレーションが独自のスポーツとして成立する」という主張を正当化しようとしていると指摘します。
それに対して、ホルトは、問題にすべきなのは「ビデオゲームがスポーツとしてみなされるかどうか」であり、「特定のスポーツのシミュレーションがスポーツとしてみなされるかどうか」、ましてや「シミュレートするスポーツそのものとしてみなされるかどうか」ではないのだと述べています。この主張は妥当なものであると言えるでしょう。
そのうえで、ホルトは、スポーツにおいても、サイバースポーツにおいても、身体的能力によって結果が決定されるという共通点があることを指摘します。となると、サイバースポーツがスポーツであるかどうかという問題は、そこで用いられる身体的能力がスポーツとしては適切なものであるのかどうか、ということになるのです。
全身の運動と微細な運動

ヘンプヒルは、自らの論の中で、全身の運動技能(gross motor skill)と微細な運動技能(fine motor skill)を区別し、前者によってスポーツを特徴づけようとすることに異議を唱え、サイバースポーツをスポーツに含めようとする彼の論を補強しようとしていますが、ホルトはそれに対して疑義を差し込みます。ホルトは、かなり微細な運動技能(例として、「豆つかみ」が挙げられています)まで含めるような広範なスポーツ定義は、包括的すぎて直観に反していると指摘しています。さらには、ヘンプヒルは全身/微細の境界線が明確に示しえないことを示唆していましたが、それに対しても、例えば、主要な筋肉群を関与させるもの、全身を使った運動、全身の制御を伴うもの、など全身の運動技能を区別する十分な方法があることを指摘しています。
そのかわりに、彼が主張するのは、サイバースポーツを支持するよりよい方法は、スポーツの中心的な事例に最も近いビデオゲームに焦点を当てることだということです。ホルトは、Wiiのようなビデオゲームシステムや、そうしたスポーツ向けビデオゲーム技術の次世代バージョンのようなものを想定した、全身の身体的スキルを含むようなビデオゲームを考慮の対象とします。ホルトが言うには、シミュレーションであるか否かにかかわらず、こうしたシステムを持つビデオゲームは全身の身体技能を要するゲームであり、したがってスポーツのクラスに属する可能性のある候補です。このように特徴付けられ、一部のゲームが既に満たしている、または近い将来満たすであろう形式的な要件を考慮すると、このようなゲームをスポーツのカテゴリーから排除する原理的な根拠を見出すのは困難であると主張します。
実行領域と適用領域
ホルトは、サイバースポーツをスポーツから隔離するものとして、サイバースポーツの領域の仮想性がその原理的な根拠になりうるとしています。
そのことを示すために、ホルトは、「実行の領域」と「適用の領域」という区別を持ち出します。実行の領域とは、エージェントの熟練した動作がどこで発生するかという、動作の主体側の問題であり、一方、適用の領域は、動作の結果がどこで実現されるかという、動作の対象側の問題です。多くの場合、この二つの領域はほぼ一致していますが、必要な動作が完了した後、行動の意図された結果が時間的または空間的に分離されることがあるのです。例えば、対面での会話では実行領域と応用領域がほぼ一致する傾向がありますが、電話での会話は空間的な意味で実行領域と応用領域が著しく異なるものと見なすことができます。
ホルトが言うには、ビデオゲームの環境の仮想性と伝統的なスポーツの環境の物理性の違いが、ビデオゲームをスポーツのカテゴリーに含めない理由を直感的に説明する理論的基盤を提供するのです。サイバースポーツは、原則として分離した実行領域と適用領域を技術的に実現しています。通常のスポーツでは、領域は一致します(例えば、競技場など)。プレイヤーがシュートを放つ場所は、当然ながら、ゴールを決めようとする同じ領域です。しかし、サイバースポーツではこのことは成立しません。なぜなら、サイバースポーツは定義上、スキルが現実の領域で実行され、その後転送される必要があるからです。逆に、スポーツは、スキルの実行の領域とスキルの適用される領域が、現実的で物理的な領域である必要があるのです。これが、eSportsと伝統的スポーツを区別する点です。
スーツ論とビデオゲーム
さらにホルトは、サイバースポーツやビデオゲームが仮想的領域を持つことは、伝統的なスポーツの概念だけでなく、スーツのゲーム定義に対しても挑戦を投げかけているのだと指摘しています。
ホルトが持ち出すのは、スーツ論について投げかけられる定番の反論です。スーツ論に対する反論については以前も取り上げています(チェスはゲームではない?? ──バーナード・スーツによるゲームの定義をめぐる論争010)。スーツのゲーム定義についてもそちらのほうで説明しているので、今回は定義の内容だけ参照しておきましょう。
ゲームをプレイすることは、ルールの認める手段[ゲーム内部的手段]だけを使ってある特定の事態[前提的目標]を達成する試みであり、そのルールはより効率的な手段を禁じ、非効率的な手段を推す[構成的ルール]。そしてそうしたルールが受け入れられるのは、そのルールによってそうした活動が可能になるという、それだけの理由による[ゲーム内部的態度]。(邦訳、37頁)
ホルトは、こちらの記事でも取り上げられた「前提的目標の不在」問題について触れています。この問題はチェスがやり玉にあがることが多いのですが、チェスにおいてプレイヤーの目標とは「チェックメイト」という状態です。しかし、この目標は、ゲームのルールへの参照なしには存在しえないように思えます。前提的目標は、例えば「ゴールテープを切る」のように、ゲームの成立以前にも達成できる目標でなければならないため(でなければ「非効率的な手段を使う」というテーゼが成り立たなくなります)、したがって、スーツ論への反論となりうるわけです。そして、このことは人工物であるビデオゲームでも同様に言えるわけです。

この点について、ホルトは、ゲーム外的(prelusory)な言い方で目標の再記述をすることで対処しています。ホルトは、チェスにおいては「投了を誘発すること」、ビデオゲームについては、「スコアボード、紙のパッド、またはビデオ画面の指定された場所に最も高い数字を持つこと」という風に記述することで問題を回避できると考えているようです。
もうひとつの論点は「構成的ルール」にかかわるもので、かいつまんで言うと、ゲームのルールは破ることができるものでなければならないのに対し、ビデオゲームのルールは破ることができない、という問題です。というのは、ビデオゲームのルールはプログラミングされたものであり、ゲーム内で起こりうることを前もって決定しているものであるため、ルールを破るような行為の可能性自体が成立しないためです。
ホルトが言うには、それによって4つ目の要件、「ゲーム内部的態度」が成り立たなくなります。スーツはゲームをすることの特徴づけとして、自ら進んでルールを受け入れること(自発的態度)を重要視しているため、この点が論点になりうるのです。
この点について、スーツはビデオゲームにおける「チートコード」の存在によって、スーツ見解への適合性を担保しようとします。つまり、チートが可能であるようなビデオゲームは、それを利用しないことによって、自ら進んでルールを受け入れるという要件がクリアできるというわけです。
しかし、チートコードが仕様として実装されていないような多くのゲームにおいてはどうでしょうか。これについては、ホルトは、ルールを破ることの実際の可能性(the actual possibility of breaking rules)ではなく、ルールを破ることが可能であることのもっともらしさ(the possible actuality of breaking rules)が、スーツ定義の擁護者にとって本当に重要な点なのかもしれない、と示唆しています。ちょっとわかりづらいですが、つまりは、ルールを破れるというが実際にできるかどうかというよりは、ルールが破れそうである(のにしない)ということが重要なのだということだと思われます。
派生的な意味でのゲーム/スポーツ

ここまでホルトは、eSportsがスポーツであることについては反対、ビデオゲームがスーツによるゲーム定義に含むことができることについては擁護の姿勢をとってきましたが、最終的に、eSportsやビデオゲームは「派生的(derivative)」な意味において、スポーツやゲームなのであると考えるべきかもしれないことを示唆します。
というのも、ビデオゲームの仮想的な領域は、いわばもう一つの現実なのではなく、表現的(representative)なものでしかないのだと考えられるからです。
これもちょっと難しい言い方ですが、「当たり判定」について考えるとわかりやすいかと思われます。ビデオゲームではキャラクターやオブジェクトに、攻撃が当たる範囲として当たり判定といわれるものが実装されていることが多いのですが、このあたり判定はしばしばキャラや物体の「見かけ」とはかけはなれることがあります。このように、ビデオゲームでは、見かけと中身が別々に存在することがあるのです。

当たり判定をルールの一つとして考えるなら、単なる見かけではなく当たり判定を考慮してプレイしなければならない私達プレイヤーは、仮想世界として描写されているものを情報として利用しながら、実際にはプログラムされたルールのなかで行為を実行し、その適用を「表現を通して」認識しているわけです。すると、伝統的なゲームとビデオゲームはこの点において何ら変わらないというわけです。
その帰結として、ホルトは、仮想ゲームは現実のゲームに対して、依存している関係にあるのだと述べています。これが「派生的」であると述べたことの内実であり、つまり、ビデオゲームは伝統的ゲームと比べたときに、そこには実は大きな差はなく、ビデオゲームは伝統的ゲームの「派生」でしかないわけです。
キャラクターとモニターの存在に訴える
2回に続けて、スポーツとeSportsを切り分けて、eSportsを特徴づけるための研究を紹介してきました。それ以前にも「動作の圧縮」という概念を持ち出して、eSportsを特徴づけようとする論文を紹介しており(eSportsにおける「スキル」の特徴とは ──「動作圧縮」というアイデア 004)、実は、今回と前回扱った論文は、そこで批判の対象とされていたものなのです。

しかし、わたしとしては、むしろ、動作の圧縮より、どちらかと言えば、今回と前回の論文の方向性で特徴づけるほうがよいと考えています。というのも、直観的に考えて、eSportsの特徴づけとして、伝統的スポーツとは異なる「環境」でプレイされることがやはり本質的であるように思われるからです。また、それにより、スキルセットにも特徴的なものが現れるのだというのが私の考えです。
では、どのような環境の違いに注目するのかというと、ひとつは、「プレイヤー・キャラクター」の存在、もうひとつは、「モニター」の存在です。eSportsやビデオゲームはこれらの存在によって「キャラクター操作」または単純に「操作」という独特の技術が必要になるのだというのが私の考えです。今回の話で言うと、実行領域/適用領域の区別はビデオゲームやeSportsについて考えるための道具立てとしてかなり有用なのではないかと思いました。
このアイディアはおそらく多くの人の直観と共通しうるものであり(なので、目新しさはないかもしれません)、それによって説明力が担保されると考えていますが、詳細な検討については、また別の機会に回したいと思います。
参考文献
Holt, Jason. 2016. “Virtual Domains for Sports and Games.” Sport, Ethics and Philosophy 10 (1): 5–13.
Suits, Bernard. 2014. The Grasshopper: Games, Life, and Utopia. 3rd ed. Toronto: Broadview Press. (『キリギリスの哲学──ゲームプレイと理想の人生』川谷茂樹・山田貴裕訳、ナカニシヤ出版、2015年)
美学者とは
美学者の役割
- 【美的判断】なぜある人が「美しい」と感じる対象を、別の人は「そうでもない」と思うのか
- 【芸術作品の価値】作品が私たちの感性に与える影響を、どう評価し、言葉で説明できるか
- 【日常の美】ファッションやインテリアなど身近なところに潜む「美しさ」をどのように考えるか
こうした問いに取り組むのが美学者の役割です。近年では、ゲームの体験やデザイン、スポーツや身体表現、さらにはSNSなど、従来は「美学」とはあまり結びつかなかった分野にまでその探究範囲が広がっています。哲学や芸術学と深く関係しながら、現代社会のあらゆる「感性の問題」に光を当てるのが、美学者と呼ばれる人々なのです。

【PROFILE】
北海道帯広市出身。早稲田大学文学研究科博士後期課程在籍。専門は、ゲーム研究、美学。主な論文に、「個人的なものとしてのゲームのプレイ: 卓越的プレイ、プレイスタイル、自己実現としての遊び」『REPLAYING JAPAN 6』、「ゲームにおける自由について──行為の創造者としてのプレイヤー──」『早稲田大学大学院 文学研究科紀要 第68輯』。ゲームとファッションとタコライスが好き。






















