【連載】美学者 上野悠の「美学でひもとく世界」
「ゾーン」に入る

何かの作業に集中しているときに、我を忘れるような没頭した状態になってその作業が高いレベルでこなせるようになることをよく「ゾーンに入る」と言いますよね。この言葉遣いは最近では日常でも、仕事や勉強などで使われていますが、この言葉が広まったのは、スポーツにおける文脈からだと考えられます。
スポーツの世界では、プロのアスリートたちが、思考抜きで身体が流れるように動き、動作を完ぺきにこなせるような状態のことを「ゾーンに入る」と表現されています(英語でも同様に「being in the zone」と言います)。
このゾーン状態ですが、重要なのはおそらく「思考抜き」という部分です。ゾーンに入っているとき、いわば「無我の境地」のように、身体が考えることなしに動いているのだというふうに言われています。
しかし、こうした考えに対し、近年では疑問が投げかけられています。というのも、よくよく調べてみると、トップアスリートたちは、競技中、むしろいろいろと考えながら体を動かしている側面もかなりの部分あるようだからです。
元バレエダンサーでもある哲学者のバーバラ・モンテロは、アスリートやダンサーといった「身体動作のプロ」たちの動作中にも思考が介在しているのだというテーマでいくつもの論文や単著を出しており、このトピックにおける旗手と言える研究者です。今回は、その中でも、「ゾーンに入る」ことについて取りあげた論文をご紹介します。
スポーツでは「考えない」ほうがいいのか

アスリートたちは時々、「ゾーンに入っている」状態のことを、「考えること抜きに動作がスムーズかつ完璧に流れる時間」として説明します。例えば、MLBの投手キャットフィッシュ・ハンターは、ノーヒットノーランを達成した試合の後、「試合中はずっと、夢のようなぼんやりとした状態でプレイしており、ノーヒットノーランのことを一切気にしていなかった」と語っています。もし思考しないことがピーク時のスポーツパフォーマンスに不可欠なら、アスリートには思考を抑制するように助言したほうがいいということになりそうですが、果たして本当にそうなのでしょうか。
実際、心理学者などの研究者の中には、「高度に訓練されたスキルは自動化されるため、内省的な思考(自分を顧みるような思考)はパフォーマンスの妨げになる可能性がある」と述べています。
しかし、モンテロは「一部の研究者たちが特定の高度なスキルに有害と見なしてきた思考の形態、またはより広義の精神プロセスの一部は、それらと相容れることを主張し、さらに、エキスパートレベルのスポーツパフォーマンスにおいて、思考することはしないことよりも一般的に優れている」と主張しようとします。また、このことが「ゾーンにいること」が思考と相容れることを導き出すかどうかは、一部「ゾーンにいること」の意味に依存するとして、「ゾーンに入る」とはどのようなことかについても所見を述べています。
スキル実行と思考は相容れないとする心理学的実験

まず、心理学においては、「ゾーンに入る」ことに関連するような、いくつかの実験結果の蓄積があり、これらは「思考はゾーンにいることに逆効果である」という原則を裏付けるものと広く見なされています。
これらの実験では、だいたいの場合、参加者をより高度なスキルを持つグループ(中級レベルのことが多い)と初心者グループに分けます。両グループは、サッカーボールのドリブル、野球の打撃、ゴルフボールのパットなど、特定のスキルを実行するように求められます。
このときの実行条件として、通常通りの実行(単一タスク条件、あるいは、コントロール条件)、自身の動作の特定の側面への注意を向ける(スキル関連の追加タスク条件)、または無関係なタスクに従事しながら実行する(スキル非関連の追加タスク条件)の3つです。このような研究の結果は、思考(ここでは「思考」をかなり広義に解釈しており、運動の特定の側面への注意やモニタリングを含んでいます)が高度なパフォーマンスを妨げるという考えを支持することになります。
コントロール条件と比較して、より高度なスキルを持つアスリートはスキル関連条件で著しく劣るパフォーマンスを示しましたが、スキル無関係条件では僅かに(または無視できる程度に)劣るのみという結果となっています。一方で、初心者グループはコントロール条件と比較してスキル無関係条件で著しく劣るパフォーマンスを示し、スキル関連条件ではむしろわずかに優れる傾向がありました。

つまり、より高度なスキルを持つプレイヤーが、スキル実行過程の細部に注意を向けてしまうと、ほぼ確実にパフォーマンスの低下が起こってしまうのであり、したがって、このような研究は、動作の実行中に自分が何をしているかに焦点を当てることは、専門的なスキルを妨げることを示唆しています。このことを拡張するならば、ゾーン状態は、自分の動きに意識的に注意を向ける思考形態と相容れないように思われます。
しかし、モンテロは、こうしたデータは、他の合理的な解釈が可能であると指摘し、アスリートの対処戦略に関する日記研究の結果や、さまざまな第一人称的な報告と組み合わせることで、「ゾーンにいる」状態においても、思考の余地が残されていることを示そうとします。
「生態学的妥当性」について指摘する
モンテロはまず、これらの実験が生態学的妥当性(ecologically valid)を有しているのかという疑問を投げかけます。生態学的妥当性とは、かいつまんでいうと、それが実際の場面に沿っているかどうかという尺度のことです。
モンテロは、こうした実験が生態学的妥当性を持つには、具体的にどうなっていればよいのかについては判断が難しいものの、一連の実験には問題点があると指摘しています。
例えば、これら実験において、被験者は通常行わないようなスキル関連の補助タスクを実行するように求められています。例として、ある実験では、サッカーのドリブルタスク中に自らの足の動きを観察し、それについて報告するよう求められますが、これは運転中に後部ミラーを継続的に監視させるようなものです。後部ミラーを見ることは運転において重要な行為ですが、それは時々行うべき行為であり、サッカーにおいても、同じことが言えるわけです。

また、実際に、ハイレベルなサッカーをプレイする際に足を継続的に気にすることがパフォーマンスを妨げるかどうかについても、まだ明確ではありません。というのも、問題の原因は監視そのものではなく、報告行為にある可能性もあるからです。ある研究では、エキスパート射撃手に射撃中にトリガー指の動作を気にするよう求めましたが、その結果を報告するようには求めませんでした。すると、この実験の研究者は、研究参加者がスキルと無関係のタスクに集中するよう求められた状況と比較して、射撃者のパフォーマンスは同じ程度だったと報告しています。こうした、注意のみを要求するタスクは、被験者に動作のさまざまな側面を注意しさらに報告するよう求めるような実験よりも、生態学的妥当性が高いと言えそうです。
また、これら実験が生態学的妥当性を欠く別の理由として、アスリートが実際の試合で直面するような、緊張感のある状況をとらえていない点も挙げられます。実験中のような環境では、プレッシャーのかかる状況でのエキスパートレベルのパフォーマンスに特徴的となるような集中力が引き出されていない可能性があるのです。
初心者と上級者の差については?

しかし、実験に生態学的妥当性が十分でなかったとして、初心者はスキル関連の追加タスク条件において成績がよくなるのに対し、より訓練された参加者は、スキルに無関連な条件において成績が良くなっていることはどのように説明されるのでしょうか。
モンテロは、こうした点については、タスクを速く実行できる人や、動作に集中する能力が高い人にとって、実験におけるスキル関連条件が、より注意をそらすようなものとなってしまっている可能性があると指摘しています。タスクを迅速に実行できる人は、その分だけ、同じ時間で多くの動作を実行できます。それにより、報告すべき情報量が多くなっているかもしれないのです。
さらには、エキスパートは単に自分の動きに集中するのが上手いだけであるとも言えるかもしれません。つまり、エキスパートは行動中に意識を身体に向ける方法を熟知しており、それを徹底的に実行できるため、通常は集中を要しないような動きの側面への集中を求められると、初心者よりも専門家の方がより注意が散漫になる可能性があります。例えば、ボールと接触した足の側がどこだったかを記憶することがスキルの実行に無関係な場合、そこへの集中は初心者のパフォーマンスよりも専門家のパフォーマンスに干渉する可能性があります。初心者の場合は自分の動作の詳細に注意を向ける能力が未発達であるために、そこまで妨げにならないわけです。それどころか、自らの動作に注意を向ける能力が発達してないために、実験におけるスキル関連の追加タスクがそのような集中力を補助し、結果的に無関係なタスクの場合よりもよい結果をもたらしているとも考えられます。

最後に、モンテロは、このような実験が「プロレベル」を対象にしていない点も指摘しています。つまり、プロレベルのエキスパートは自らの動作について思考しながら動作を実行することができるものの、実験に参加しているような中級レベルの人たちにはそれがむしろ難しくなっている可能性があります。動作に注意を向けながら意識的に制御することは、プロのパフォーマンスには干渉しなくても、アマチュアのパフォーマンスには干渉する可能性があります。つまり、プロの選手は「ゾーン」状態で思考できるかもしれませんが、アマチュアはできないかもしれないのです。
このように、「ゾーン」関連の実験には、思考することが最適なパフォーマンスと相容れないという見方を支持しないとするような解釈がいくつも存在するのです。こうした解釈の存在自体は、思考がパフォーマンスを妨げるという主張に疑問を投げかける余地を残しているわけです。
ゾーンと思考は両立する

こうしてモンテロは、ゾーンにおいては思考が介在しないとする実験の多くが、他の解釈の存在によって、その帰結(ゾーン状態と思考は両立しない)が疑わしいものになることを指摘しました。そこからさらに、それらと食い違う、つまり、ゾーン状態と思考が両立可能であるとする報告を取り上げていきます。
例えば、エキスパートの重量挙げ選手たちのトレーニングおよび競技中の運動の運動学的側面を測定し、競技のプレッシャーに対応するために意識的に採用した動きの変化戦略について選手たちに質問した研究があります。この研究では、低プレッシャーの状況(練習)と高プレッシャーの状況(競技)の間での動きのばらつきを調べ、参加者たちが競技のプレッシャーの結果として動きを変更し、それを意識的に行っていると主張したものの、そのような変更は彼らの全体的なパフォーマンスを低下させることはなかったことを発見しました。自分の動きを意識的に変更するには意識的な制御が必要であるため、このことは、意識的な制御をおこなうための思考プロセスは、高度なパフォーマンスと両立する可能性があることを示唆しています。
こうした例を踏まえると、正しい見解は、一部の思考はパフォーマンスを妨げる可能性があるものの、エキスパート選手は、競技中に、パフォーマンスに役立つような思考に従事している、ということであるとモンテロは言います。例えば、ある研究では、ゴルファーにクラブヘッドに注意を向けさせ、各パット後にボールが当たったパター面の正確な位置を報告するよう指示され、これはパフォーマンスを妨げることとなりました。しかし、「思考を声に出す」という指示に従いながらボールをカップインさせた場合、ゴルファーはスキルに焦点を当てた多くの思考を報告しただけでなく、思考を声に出さずにボールをカップインさせた場合と同等のパフォーマンスを発揮したのです。

この結果から、研究者たちは、「ゴルファーはスイングの思考を非常に慎重に選択する必要があるかもしれない。なぜなら、インパクトポイントのような運動の特定の要素に焦点を当てることは、パフォーマンスの熟練度に障害を引き起こす可能性があるからである」と述べていますが、モンテロはこれについても疑問を投げかけています。
モンテロは、思考を声に出すプロトコルの分析が示すように、プレイの過程で「いつも」するような思考はパフォーマンスを妨げない可能性があると述べています。さらには、インパクトポイントに関する思考がゴルファーの通常のルーティンの一部であれば、これらもパフォーマンスを妨げないかもしれないと言っています。つまり、重要なのは、その選手のルーティンとなるような思考があり、それらはプレイの妨げにならないということです。
ゾーン状態の再定義

最終的に、モンテロは「ゾーン」状態で考えるとは具体的にどのようなものなのかについて、いくつかのエキスパートの見解を参考にしつつ、自らの意見を提示します。
エキスパートたちの言葉には、試合中であっても自らの動作に注意を向けることをすすめていると捉えられるようなものが見受けられます。例えば、テニス選手兼コーチのティモシー・ギャロウェイは、「頭を試合から離す」べきだとしていますが、一方で、全身の筋肉の感覚を把握することの重要さについても述べています。
このような例を挙げながら、モンテロは、アスリートが時折、思考のない最適なパフォーマンスのゾーンに入ることを示唆している点は認めつつも、「最適なパフォーマンスは思考を伴うパフォーマンスと矛盾しない」ということが、まれな例外を除いて真であると主張します。
モンテロが指摘するのは、ゾーン内では思考が介在しないと示唆するエキスパートたちの一部のコメントは、ゾーン内で思考が可能であると認めるようになれば、異なる解釈を必要とするかもしれないということです。例えば、モンテロは、冒頭にあげたハンターの言葉について、彼は、パーフェクトゲームについて心配はしていなかったと言っているものの、何かについて心配していないからといって、まったく考えていないということではないだろうと指摘しています。おそらく彼は、どのような投球をするか、打者が何を期待しているかなど、さまざまなことについては考えていたのであり、史上9人目の完全試合を達成できるかどうかについては考えていなかった、あるいは少なくとも心配はしていなかったのかもしれなかったと考えられるのです。

モンテロは、それ以外のいくつかのケースについても、「一部の選手が特定の種類の努力を「思考していない」と表現しているに過ぎない」というふうに説明可能であると主張します。モンテロによると、最適化されたパフォーマンスとはさまざまな意味で努力を要するものであり、そこには思考や意識的な制御も伴うことがあります。さらに、思考や意識的なコントロールを強化するには、強い意志が必要であるため、大きな意志力も必要になるかもしれません。そのことを踏まえると、「ゾーンに入る」ことを、心を空っぽにして最適なパフォーマンスを発揮することだと考える人は、自分の意志の力を働かせなくても行動を継続できるような、まれな状況を──たとえその状況では多くの思考やコントロールが存在していても──努力も思考も不要で楽な状態だというように解釈しているのかもしれないのです。
ハンターが言及するような「ぼんやりとした夢のような状態」は、単に「思考、身体的努力、注意が、それらを発生させるために莫大な意志力を必要とせずに進行する時間」に過ぎないのかもしれません。もしそうなら、ゾーンを「最適なパフォーマンスが行われている間」と定義する場合、それは思考の余地と相容れるものとなるのです。
参考文献
Montero, Barbara Gail. 2015. “Thinking in the Zone: The Expert Mind in Action.” Southern Journal of Philosophy 53 (S1):126-140.
美学者とは
美学者の役割
- 【美的判断】なぜある人が「美しい」と感じる対象を、別の人は「そうでもない」と思うのか
- 【芸術作品の価値】作品が私たちの感性に与える影響を、どう評価し、言葉で説明できるか
- 【日常の美】ファッションやインテリアなど身近なところに潜む「美しさ」をどのように考えるか
こうした問いに取り組むのが美学者の役割です。近年では、ゲームの体験やデザイン、スポーツや身体表現、さらにはSNSなど、従来は「美学」とはあまり結びつかなかった分野にまでその探究範囲が広がっています。哲学や芸術学と深く関係しながら、現代社会のあらゆる「感性の問題」に光を当てるのが、美学者と呼ばれる人々なのです。

【PROFILE】
北海道帯広市出身。早稲田大学文学研究科博士後期課程在籍。専門は、ゲーム研究、美学。主な論文に、「個人的なものとしてのゲームのプレイ: 卓越的プレイ、プレイスタイル、自己実現としての遊び」『REPLAYING JAPAN 6』、「ゲームにおける自由について──行為の創造者としてのプレイヤー──」『早稲田大学大学院 文学研究科紀要 第68輯』。ゲームとファッションとタコライスが好き。
























