【連載】美学者 上野悠の「美学でひもとく世界」
プロセスアート後編
前回から、C・ティ・グエンが提唱する「プロセスアート」という芸術形式について解説してきました。前回は理論の提示と、それにまつわる哲学的な問題──プロセスアートにおいて制作者とはだれなのか──への解答をざっと見てきました。
今回は、その続きとして、プロセスアートにおける鑑賞のフレーミングの問題や、プロセスアートに対する想定されうる懐疑論への応答などについて紹介していきたいと思います。
プロセスアート
グエンは、プロセス•アートに関する自らの分析を、最近注目を浴びている「日常美学」についての議論と比較します。日常美学の代表者であるユリコ・サイトウは、芸術制作や芸術鑑賞の形式的な実践を、それらと比べて構造化されていない、より自由形な美的経験──伝統的な芸術に見られるような規定に縛られない美的経験──と対比させます。
サイトウによると、絵画などの標準的な芸術実践においては、作品の周囲に鑑賞の範囲を規定するための「枠」が設けられています。芸術作品には、ある特定の方法で作品に接触し、特定の性質だけを美的な注意の中に含めるという、適切な出会いの規定があるのです。
一方、日常美学とは、公式に規定されるような枠のない美的経験であると主張されます。日常美学では、私たちは好きなようにフレーミングしたり、フレーミングし直したりしながら、世界をさまようのだとサイトウは言っているのです。
ところで、芸術作品においては、なぜフレームを作るのでしょうか。作品の観賞方法を規定するフレームは、注目の対象を安定させるのに役立ちます。そしてそれは、異なる観客が同じような経験をすることを可能にする一部でもあるのです。
例えば、小説は一定の順序で読むべきだというルールは、すべての読者が同じ物語を見ていること、そして全員がほぼ同じ経験的出発点にいることを保証するのに役立ちます。しかしサイトウは、それは、芸術の美学と日常美学の間にトレードオフがあることを意味すると言います。

芸術にはフレームがあり、それにより比較的安定していて共有可能な経験形態があります。しかし、日常美学にはフレームがないため、安定した対象と共有可能な経験を失ってしまうことになるのです。代わりに得られるのは、「美的自由」です。日常美学では、私たちは想像力と創造性を思いのままに発揮することができるのです。芸術においては、慣習や社会的慣例によってフレームが形作られ、それが私たちの美的関心を左右していますが、日常美学においては、それらをどのように使うかは、私たち自身の好きなようにでき、私たちは美的対象をどのようにでも構成することができるのだと、サイトウは主張しています。
さて、グエンは一度この分析を受け入れてみて考えます。サイトウの分析は、私たちが芸術の何に関心を持つか、つまり、なぜ芸術の美学が日常的な美的経験とは異なるのかについて、極めて重要なことを突いているとグエンは評価しています。アートには、具体的な人工物のほかに、特定のアプローチを規定する社会的実践が含まれています。つまり、対象物になんらかの美的性質を持たせ、他の人がそれを見ることができるようにするために縛り付けるのです。
では、プロセス美学においてはこの点はどうなのでしょうか。サイトウの線をとると、すべてのプロセス美学は日常美学であることになります。この意味でのプロセス美学には、枠にはめられた経験は存在しません。つまり、プロセスアートは存在しないことになるのです。
サイトウはなぜプロセスアートの可能性を否定するのでしょうか。サイトウによれば、アートの世界は、コントロールされた最適なアート経験を私たちに与えようとしており、典型的な芸術経験は受動的なものです。したがって、プロセス美学の本質的に能動的な参加の形態は、芸術の持つ統制的な側面と緊張関係にあるように見えるのです。

グエンは、サイトウの言う通り、私たちの日常経験には、プロセス美学の枠にはまらない瞬間が多くあることは認める一方で、プロセスアートが存在しないと考えることは正しいとは思わないと反論します。
グエンが言うには、プロセスは枠にはめられることが可能であり、プロセスアートのアーティストは、もたらされる活動の美的な側面を、ある程度コントロールすることができるのです。グエンは、このことはゲーム批評の実践を見ればよくわかるのだと言います。ディスクの匂いを嗅ぐことでは、ビデオゲームに対する批評的な判断を下すことは不可能であり、例えば『ワンダと巨像』(ソニー・コンピュータエンタテインメント 2005)をプレイするときは、アバターを巨大な巨人の体の中や周囲に移動させるというような難題に美的に立ち会うことで、ゲームに対する判断を下すことになります。このように、プロセスアートにも、何らかのフレームが関わっているのです。
プロセスアートの場合は、フレームによって、私たちの美的注意は、私たちの行為や作品の特定の側面に向けられることになります。その側面こそまさに、物理的なオブジェクトではなく、グエンがよく言う「行為者性」なのです。フレーム化されたプロセスアートは、特定の活動をパッケージ化・明確化して、アーティストから観客へと伝達することができます。それは、例えば、同じロッククライミングのコースを登り、同じ物理的な課題に対して同じような運動パターンを行うときのように、共有可能なプロセスの美的経験をすることを可能にしているのです。

一方で、美的な意図をもって作られたものの、ゲームのようなフレームを持たない人工物を想像することもできます。グエンが言うには、都市とは、そのような枠のないプロセスアートの作品なのです。都市を美的に評価する際に、間違った種類の特徴に注意を払うというようなケースは考えにくいように思われます。都市を美的に評価する限り、その都市に対する美的判断を形成する上で、いかなる形式の美的注意や行動も許されるように考えられるのです。
機能的フレーム
さらにグエンは興味深い指摘を残しています。プロセスアートの中には、オブジェクトアートと共通して持つような美的フレームとは別に、「機能的フレーム」と呼ぶべきものを提供するものもあるのです。この場合、行為者の注意は何らかの目標によって導かれます。例えば、グエンによると、フライフィッシングをする人の多くは、キャスティングのリズム、水面への注意、鱒の気配を探る特別な精神状態といった、ある種の形式から生じるような美的経験について述べているようです。このようなフレームは、美的フレームとは異なる注意の形態であり、グエンはそれを「機能的フレーム」と呼んでいるわけです。
プロセスアートは結局オブジェクトアートの一種なのでは?
グエンは、プロセスアートとオブジェアートと何ら変わりないものであると主張する人を想定し、反論を試みます。この想定には根拠があり、グエンは、ドミニク・マカイヴァー・ロペスという美学者の、インタラクティブ・コンピュータ・アートについての議論を参照します。

ロペスは、ビデオゲームのようなコンピュータ・アートをオブジェクトアートのパラダイムに還元しようとしています。ロペスによると、コンピュータ・アートにおいて、仮想空間での探索などはアートワークではなく、本当のアートワークは、作品をプレイする全ユーザーの間で共有される安定した機能、つまりアルゴリズム、プログラム、そしてそれらがもつ機能が生み出す可能性の空間から構成されるものです。
ロペスは、コンピュータ・アートは、自分自身の活動に美的に立ち会うよう規定されているのではなく、むしろ、そうした活動は、安定した鑑賞をするための手段にすぎないのだと主張します。つまり、ヴァーチャルな空間を探索し、ヴァーチャルな出来事に参加することは、美術館で彫刻の周りを歩き回ることをもっと複雑したバージョンにすぎないのです。プレイヤーの動作や選択は、作品の全体を浮かび上がらせるための手段でしかないのです。
グエンは、ロペスの説明は、ある種のコンピュータ・アート、特にロペスが最も注目している、美術館のインタラクティブなインスタレーションについては、確かに正しいと認めます。このようなアート作品は、多くの場合、作品とのインタラクションは労力をほとんど必要とせず、デザインやコンテクストには、ユーザー自身の活動に注意を向けさせるようなものはあまり見られません。よって、鑑賞者の注意は、仮想環境や選択肢に向けられるのです。
しかし、こうした類のオブジェクトを、例えば『スーパーマリオブラザーズ』のようなゲームと比べてみると、その差がわかります。こうしたゲームの核となる要素は、失敗やスキルの向上、また、障害を克服するための繰り返される試行におけるスキルの展開です。

『スーパーマリオブラザーズ』をプレイするとき、プレイヤーは同じ単調な環境と視覚的・音楽的要素に何度も遭遇します。こうした、視覚的要素の単純さと反復性は、プレイヤーが自らの活動に注意を向けさせるのに有効であると考えられます。これらの要素の視覚的・聴覚的内容は注意から遠ざかり、その結果、プレイヤーの注意は環境の実際的な側面、つまり挑戦や障害物としての存在に集中するのです。このようなインタラクティブ・アートは、注意は活動の内容に向けられており、したがって、オブジェクトアートではなく、プロセスアートなのです。
プロセスアートにおける経験の共有
グエンは次に、ではなぜ私たちは伝統的に、プロセスアートよりもオブジェクトアートを重視してきたのだろうかという問いに取り組みます。
オブジェクトアートの地位が高いことの哲学的説明のひとつとしては、先ほども出てきましたが、オブジェクトアートが比較的安定した鑑賞の焦点を提供できるからという点があります。私たちは作品を見たり聞いたり読んだりして、それについての経験を共有することが容易にできます。
一方で、プロセスアートでは、ある程度、これを失われてしまうことをグエンは認めます。ゲーム、レシピ、街など、共有できる対象はありますが、デザイナーの作品と鑑賞的焦点の間に、行為者の行為者性が介在します。注意や集中が向けられる正確な内容と、それに付随する美的性質の正確な形は、まったく同じプロセスアート作品に関わっていても、行為者によって異なるのです。

オブジェクトアートの実践は、共有された経験、あるいはそれに近づく何かを持つことを可能にします。優美なデッサンを見て、その優美さはデッサンそのものにあると思うかもしれません。このように、私たち鑑賞者は皆、同じ優美さに触れることができるのです。一方で、プロセスアートでは、全く同じ美的性質を互いに共有することはできません。プロセスアートはむしろ鑑賞者に選択肢を与えることで、「自由」をたのしませることに焦点がある場合が多いのです。
このような場合、私たちはプロセスアートとの関わりにおいて、正確に同じ内容を共有するという希望を捨てなければならないとグエンは言います。ここに、プロセスアートがオブジェクトアートと本質的に異なる点があるのです。多くのプロセスアートの価値は、行為者のエージェンシーに大きな余地を与えることにあります。したがって、自分自身の美的経験の内容を生み出すという真の行為者性を持つことは、他者と同じ内容を正確に共有するということと相反することになります。
一方で、プロセスアートは、同じような特徴を持つ行為者性についての経験を、さまざまな人々にもたらすことができます。例えば、プレイヤーは通常、特定のパズルに対してまったく異なる特定の解決策を導き出すが、その経験の持つ特徴──特殊なアフォーダンスを持つパズルに対処すること、位相の操作という観点から考えることを学ばなければならないこと、特定のトリックを見つけ出すこと──は、非常に似通ることになります。これこそまさに、能動的な注意のフレームを共有することで得られるものなのです。
同じプロセスの作品に関わるとき、異なる行為者は同じような状況に導かれます。しかし、私たちは、自らの自由な選択によって得られるような特別な美的経験をするために、美的内容の正確な共有可能性を犠牲にしなければならないのです。よって、プロセスアートをフレーム化することで得られるのは、正確な共有可能性ではなく、近接性であることになります。

日常において、大きく異なる日々を過ごし、大きく異なる葛藤を抱えている別々の人たちが、同じプロセスを経験することは、おそらくほとんどありません。しかしゲームでは、目標や、用いられる能力、課題を固定することができます。そしてこのことは、私たちの美的経験を近接させ、まったく同じように固定されていなくても、顕著に共有された特徴が与えられるのです。
プロセスアートの地位
最後に、グエンは、プロセスを鑑賞することが、本質的に美学や芸術の本質と相反するのではないかという懸念に対する考えを示します。というのも、芸術的価値や美的価値に関する、一般的な説明の一つのもとでは、美的経験の条件としてある種の独立性が求められるからです。
認知的要件
まず、美的経験はその性質上、何らかの形で明確に、当該の「事態」(英文ではstate of affairsで、グエンは経験の対象となるものを物体に限定しないためにこのような語を用いています)を認知する必要があることが示唆されている。ちょっと難しいですが、要するに、美的経験とは、ただの快楽やその内面的な特徴に価値が由来するような精神の状態ではないということです。
そうではなく、美的経験は、独立していて、何らかの正確な知覚や評価を伴うようなものでなければならないのです。
グエンによると、こうした認知的要件には少なくとも2つのバージョンがあり、それらの説明によると、美的経験は、独立した状態における特定の美的特徴を正しく認識することを伴うか、あるいは、その状態のもつ美的長所を正しく認識することを伴うかのどちらかでなければなりません。
というのも、美的経験とは、私たちが見落としていた特徴を指摘したり、美的価値の評価を支持する理由を述べたりすることで、お互いの美的経験を修正し合うことができるようなものでなくてはならないはずだからです。美的生活には、しばしば物事を間違え、そして正しく見るようになるといった経験が含まれます。
このように、私たちの美的実践の特徴を考えてみると、美的経験とは自由奔放なものではなく、むしろ正確に理解することから生じるような、何らかの独立したものであることを示しているように思われます。そして、そうであるためには、経験そのものと、その経験の対象を分離する必要があるのです。

すると、プロセスアートの場合、この分離は存在しない可能性が出てくるのです。というのも、プロセスアートにおける経験の対象とは、芸術作品ではなく、実行者の活動そのものだからです。
グエンは、仮に、このような「経験そのもの」と「経験の対象」の分離の要求を妥当なものとして認めるとします。しかし、その場合でも、プロセスアートに特別な問題は生じないと言うのです。グエンによると、そのような経験の対象は、必ずしも外部の物理的な人工物である必要はありません。つまり、美的経験についての認知的要件を満たすためには、単に私たちの経験が、それらの経験それ自体とは区別されるような何かであればよいのです。
プロセスアートでは、経験の対象となるような「事態」とは、行為者の活動であり、それは行為者の経験とは異なるものとなるのです。そして、あることをすることとは、それをすることの経験とは区別されるものなのです。
行為と行為の経験は区別できるのか
しかし、私が思うに、ここでのグエンの説明はあまりうまくいっていないのではないでしょうか。というのも、おそらくこの点について懐疑的な人は、「行為」と「行為の経験」が本当に区別できるのかどうかを気にしているように思われるからです。グエンは、この点について論証なしに可能であると述べていますが(おそらくは直観的にそうであると考えているのでしょう)、行為と行為の経験が区別できるかどうかについて最低限の論証をすべきであるように思えます。前段の部分で対象と比べたときの、行為の共有可能性について一定以上の譲歩をしているのでなおさらです。

独自性の要件
次に、グエンは美的価値の独自性(uniqueness)の要件について考えてみます。美学分野においては、芸術作品の価値とは、金銭や栄養の価値などとは異なり、その作品に固有のものでなければならないという考えがあります。この考え方によれば、ある作品の価値は、別の作品によって達成されることはないということでなければならないのです。これが、栄養の価値であれば、例えば、もしほうれん草のサラダをビタミンKの含有量のためだけに食べるのであれば、代わりにレバーのソテーを食べても、それは同じように価値があることになります。しかし、芸術作品の特別な価値は作品そのものと切り離せないのです。
グエンは、このように作品が独自性を持つものでなければならないことを認めたうえで議論を進めます。まず、プロセスアートの問題点は、作品に独自性がないことにあるとも考えられるのです。というのも、プロセスアート作品の価値が、作品そのものではなく、その作品が触発する活動にあるのだとしたら、その価値は特定の作品から切り離すことができるということになるかもしれないからです。
これについてグエンは、チェスの例を出して反論します。確かに、プロセス作品は、オブジェクト作品よりも複雑な一連の段階を経て生まれるものなのですが、プロセス作品にはある種の独自性があることが大いに考えられます。チェスにおいて、ある盤面における解決法を生み出すという活動は、チェス以外では得られません。私たちがプレイヤーのチェス活動に見出す美的価値は、それがその行為者のチェスへの関わり方に固有である限り、チェスに固有なものとなります。そして、その美的価値のもつ性質は、チェスのデザインの特殊性によって説明することができるのです。グエンは、この特徴を美的依存性と呼びます。
しかし、注目すべきなのは、オブジェクトアートとプロセスアートでは、この独自性の関係の構造が異なることです。オブジェクトアートにおける独自性の関係は、そのものとそのものがもつ美的性質が1対1となっているような関係しか考えられません。しかし、プロセスアートにおける独自性の関係は、グエン曰く、ツリー状の構造を持っています。
例えば、あるゲームは、美的に価値のあるさまざまな活動を生み出すことができるが、それらの美的に価値のある活動はそれぞれ、その存在の独自性条件として当該のゲームに依存しているのです。しかしながら、グエンはすべてのプロセスアートが美的依存を生むわけではないことを認めています。そして、ゲームは美的依存性を持つプロセスアートの、非常に顕著な例となっているのです。

プロセス中心の美学へ
前後編にわたって、グエンによるプロセスアートという概念についての議論を眺めてきました。この論文はグエンによるゲームの哲学を扱った著作「Games: Agency as Art」の発展形として位置付けられる研究であり、ゲームから出発してさらに多くの「行為中心」の芸術形式を、絵画や文学といった典型的かつ伝統的な芸術形式と対置させながら、前者の擁護をしようとするというかなり野心的な論文であると言えるでしょう。
伝統的な美学の対象から離れて、私たちが主体となるような美的実践に目を向ける、という流れはすでに日常美学に見られるものですが、グエンの論はさらにそこからもずれて、「プロセスアート」という独自の概念を提示しています。この論文は「プロセス」中心の美学のスタートラインとなることを見据えられているような気配があり、正直言うと、かなり粗削りであったり、論証が十分でなかったりする部分もありますが、未開拓の分野を切り開こうとする意志や目論見は評価すべき点なのではないでしょうか。この論文を批判的に見るにしても、プロセスアートを擁護し、さらに議論を発展させるにしても、いろいろと掘り下げ甲斐のあるような論だと思います。
参考文献
Nguyen, C. Thi. 2020. “The arts of action.” Philosophers’ Imprint 20 (14):1-27.
美学者とは
美学者の役割
- 【美的判断】なぜある人が「美しい」と感じる対象を、別の人は「そうでもない」と思うのか
- 【芸術作品の価値】作品が私たちの感性に与える影響を、どう評価し、言葉で説明できるか
- 【日常の美】ファッションやインテリアなど身近なところに潜む「美しさ」をどのように考えるか
こうした問いに取り組むのが美学者の役割です。近年では、ゲームの体験やデザイン、スポーツや身体表現、さらにはSNSなど、従来は「美学」とはあまり結びつかなかった分野にまでその探究範囲が広がっています。哲学や芸術学と深く関係しながら、現代社会のあらゆる「感性の問題」に光を当てるのが、美学者と呼ばれる人々なのです。

【PROFILE】
北海道帯広市出身。早稲田大学文学研究科博士後期課程在籍。専門は、ゲーム研究、美学。主な論文に、「個人的なものとしてのゲームのプレイ: 卓越的プレイ、プレイスタイル、自己実現としての遊び」『REPLAYING JAPAN 6』、「ゲームにおける自由について──行為の創造者としてのプレイヤー──」『早稲田大学大学院 文学研究科紀要 第68輯』。ゲームとファッションとタコライスが好き。




























