【連載】美学者 上野悠の「美学でひもとく世界」
トーマス・ハーカのゲーム哲学

前に、C・ティ・グエンとトーマス・ハーカによるゲームの価値についての論争を取り上げましたが、今回は、そのハーカ自身がゲームの価値についていかに論じているかを取り上げたいと思います。
ざっくり言うと、ハーカの論とは、あるゲームが価値を持つのは、それが困難な活動を提供するから、というものです。
卓越性はそれ自体で善である

ハーカはまず、ゲームやスポーツにおける優れたプレイが称賛に価するという、一般的な直観から始めます。こうした称賛は、ゲームにおける卓越性が、プレイヤーや他者に与える喜びとは別に、それ自体が持つ優れた性質ゆえに価値があるという判断に基づいているとハーカは考えたのです。
それでは、なぜそのような卓越性が善とみなされるのでしょうか。ゲームにおける卓越性がなぜよいものであるのかについての統一的な説明は、ゲームとは何かについての統一的な説明を必要とします。ですが、現代にも強い影響力を持つ、著名な哲学者ウィトゲンシュタインによる、有名なゲーム見解があります。ウィトゲンシュタインは、それを定義する必要十分条件を与えることができないような、個々の事例が緩やかな「家族的類似性」によってのみ結びつけられるものの代表例として、ゲームの概念を挙げたのです。これにより、多くの人がゲームを定義すること自体に疑義を向けているとハーカは言います。
しかし、ハーカはバーナード・スーツによるゲームプレイ定義を引き合いに出して、こうした考えを否定します。ハーカは、スーツによるゲームを「不要な障害を克服しようとする自発的な試み」であるとする分析を用いてゲームの価値を説明しようとします。
スーツ論をもとに

ハーカはまず、スーツ論を分析し、スーツがゲームには、それぞれ「前提的目標(prelusory goals)」「構成的ルール(constitutive rules)」「ゲーム参加の態度(lusory attitude)」と呼ばれる、三つの主要要素があるとしていることを取り出します。スーツ論については何度も取り上げているので詳細は省きますが、これらの概念はそれぞれ、「ゲームとは独立して記述可能な目標」、「前提的目標への最も効率的な手段を禁止し、ゲーム内で用いられる手段に限定するためのルール」、「ゲームに参加する際の、自発的な態度」を指します。
スーツは、論の終盤で、ゲームは単なる内在的善ではなく、究極的な善であるというラディカルな主張を展開しています。なぜなら、あらゆる手段的な善がボタン一つで提供されるようなユートピアの理想状態においては、ゲームこそが万人の追求すべきものとなるからです。
ハーカは、遊びこそが至高の善であるというスーツのラディカルな主張には同意しませんが、ゲームプレイが一つの中核的善であるというそれよりは弱められた命題を、スーツによるゲームの分析と、スーツ自身が示した以上に明確に結びつけようと試みます。
前提的目標と構成的ルール
ハーカは分析を、スーツにおける最初の二要素、前提的目標と構成的ルールについての考察からはじめます。
構成的ルールは、その目標達成への最も効率的な手段を禁じることで、適度に困難な活動を生み出します。しかし、常にそうとは限りません。じゃんけんは、相手のハサミにはグーを、相手のグーにはチョキを、相手のチョキにはパーを出すことを前提的目標とするゲームです。その構成的ルールは、相手が投げた後に自分が投げること(後出し)を禁じることで、この目標達成への最も容易な手段を禁止しています。しかし、このルールは目標達成を本来より困難にするものの、絶対的な基準で困難にするわけではないのだとハーカは指摘しています。

ハーカによると、すぐれたゲームの特徴とは、手段の制限によって、単に達成が困難になっているだけでなく、絶対的な意味でも適度に困難でなければならないのです。適度な困難とは、誰も成功できないほど困難であってはならず、同時に挑戦性が全く欠けてもならず、過大な困難と過小な困難の間のバランスを取らなくてはなりません。
優れたゲームの前提的目標と構成的ルールが、その達成を適度に困難にし、困難な活動がそれ自体として本質的に善であるならば、それらはそのゲームに一つの価値の根拠を与えていると言えます。そしてハーカは、困難な活動はそれ自体として善であると考えているのです。ハーカはこの見解を以下の二つのやり方で擁護しようとします。
達成の前提としての困難さ

まず、多くの現代哲学者は、内在的善の中に達成を包含していることを指摘します。ここで言う達成とは、道徳的達成だけでなく、例えばビジネスや芸術における非道徳的達成も指します。しかし、あらゆる実現が達成とはみなされません。例えば、靴紐を結ぶ行為は、何らかの障害がある場合を除いて達成とはならないでしょう。また達成の中にも価値の差があり、新規事業の立ち上げと成功は単一の販売よりも大きな達成と言えそうです。達成と非達成、より大きな達成と小さな達成の差異を説明する要因を問うならば、その答えは主にその困難さにあると考えられます。
つまり、目標の達成が困難である場合にこそ、その達成は適切な成果となるのです。このようにして、達成の価値に関する私たちの直観的理解を考察することで、困難な活動がそれ自体として善であるとする理由が与えられます。これが、ハーカによる擁護の一つ目です。要するに、達成が善であり、困難な活動は達成をおぜん立てするから善なわけです。
達成の階層的構造

第二の理由は、ロバート・ノージックという哲学者の提示した「経験機械」という有名な思考実験から掘り出されます。この思考実験は、電気刺激によって脳が望むあらゆる活動による快楽を与える機械というものを想定し、快楽のみが善であるという快楽主義的見解への反例として意図されていますが、ハーカはここからちょっと違った考えを取り出します。
機械上での生活が理想的でないのは、そこにいる人々が現実から切り離されているためであると考えられます。彼らは実際に目標を達成することはできません。癌の治療法を発見していると思い込んでも、エベレストに登っていると思い込んでも、実際にはそうではないのです。これは重要な善が「現実への合理的接続」と呼べるものを持っており、これには理論的側面と実践的側面の二つがあることを示唆しているとハーカは言います。
理論的側面とは知識、すなわち真であり、かつ正当化された、世界に関する信念を持つことです。信念が真であるとは、人の心と現実が一致することを意味し、その正当化とは、その一致が偶然ではなく、証拠によって可能性が高められたものであることを意味します。しかし、この善を完全に説明するには、どの種類の知識が最も持つ価値があるかを明らかにしなければなりません。
この点について、説得力のある見解とは、最高の知識とは対象内容に依存しない、特定の形式的性質を最も多く備えたものであるというものです。より具体的には、最高の知識とは説明的に統合されたものであり、一般原理が中間原理を説明し、中間原理がさらに個別的事実を説明するような、階層構造を持っている、というものです。
この見解の下では、多様な事実を統一的に説明すること、あるいは一見無関係に見える現象の間に驚くべき関連性を見出すことによって、特に大きな価値があると考えられます。つまり、より多くの種類の事実を説明することにより大きな価値が生まれるのです。また、知識の正確性も重視されます。そして、多くの対象に関する真理を知ることは、たとえその説明的役割を抜きにしても、極めて特殊な真理を知るよりも優れていると考えられます。つまり、たとえある科学的法則を用いて他の事象を説明したことがなかったとしても、ある海岸の砂粒の数を把握するより、一つの科学法則を理解する方が価値があるのです。

そして、「現実への接続」の実践的側面とは、達成、すなわち正当化された信念に基づいて現実世界で目標を実現することです。ここでもまた、個人の精神と現実の間に一致が見られます。では、どの達成が最善かというと、知識の場合とおなじで、より大きな価値を持っているそれ自体としての達成とは、層的統合を中核とするような、特定の形式的性質を最も多く備えた目標を持っているような達成であると考えられるのです。ただし達成の場合は、統合関係は説明ではなく手段-目的の関係となります。より複雑な説明関係が知識の価値を高めるのと同様に、より複雑な手段-目的関係は達成の価値を高めるのです。
ハーカによると、このモデルはさらに多くのことを説明できます。達成が特に価値あるものとなるのは、多様な種類の補助的達成を必要とする場合であり、この見解を、ある達成が従属させる異なるタイプの目標の数を数えることで捉えられます。このことをより強く言うならば 、同じ反復的なタイプの従属目標のみを含む達成には、それほど大きな価値を認められないかもしれない、ということになります。また、達成における正確性——漠然とした領域ではなく特定の目標を捉えること——を評価し、それによって達成に追加的価値を与えることもできます。さらに、手段と目的の関係とは別に、目標の内容が時間軸や関与する対象の数の点でより広く及ぶほど、同様に価値が高くなると考えることもできるのです。
つまり、第一に、活動が関わる手段と目的の階層構造が複雑であればあるほど、重要な点で失敗する可能性が高まり、その活動での成功はより困難になります。第二に、階層が複雑であればあるほど、より精巧なタスクの連鎖を通じて自身の進捗を監視する必要があるため、熟慮する技能がより多く求められます。階層がより多様な下位目標を含む場合、より多様な技能が必要となるため、困難度はさらに増すわけです。同様に、活動がより高い精度を要求する場合も困難度が増します。また、内容的な広がりを持つ目標を達成することはより困難となります。なぜなら、それらを保持すること自体が人間の認知能力にとってはより困難であり、それらを達成するには世界をより多く変える必要があるからです。

そして、ハーカ曰く、これらは優れたゲームに見られる困難さのまさに核心となるのです。そのようなゲームでは通常、じゃんけんのような単純な行為ではなく、複雑な一連の課題をこなすことが求められ、その課題は多様な技能を必要とするのです。例えばゴルフでは、ボールを遠くまで飛ばすだけでなく、正確に打つこと、バンカーからのショット、パッティング、戦略的な判断が求められます。こうした技能は困難であり、習得には長年の練習を要するのです。
過程に価値が生まれる
最後にハーカは、スーツの分析における第三の要素である「ゲーム参加の態度」について詳しく検討します。
スーツの見解では、たとえ、あるプロの選手が金儲けのためだけにゴルフをしていたとしても、ルールを金銭獲得の手段としてのみ受け入れるとはいえ、ゴルフをするためにルールを受け入れているのだから、ゲーム参加の態度を持っていると言えます。
しかしハーカは、スーツがゲームプレイの一般的な概念を定義しているとはいえ、彼が究極の内在的善として擁護しているのはそうしたものではないと説明します。スーツの想定する、あらゆる手段的善が提供されるユートピアでは、プロのプレイヤーが存在しないことが示唆されています。

ハーカはこの点を強調しています。ハーカが念頭に置いているゲームプレイとは、「そのゲームが困難であることゆえに、そのルールを受け入れられている」ようなものです。困難そのものが善であるならば、前提的目標とルールはそれに善を生み出す特性を与え、ゲーム参加の態度はその善を生み出す性質ゆえにそれを選択するという判断を下します。ハーカは、こうした関係を観察し、ゲーム参加の態度を、多くの哲学者によって支持されてきた魅力的な見解、すなわち「もし何かが本質的に善であるならば、それを善たらしめる性質のために愛するという肯定的態度、すなわちそれを欲し、追求する態度がうまれる」という見解と結びつけられると考えるのです。
ハーカは、ゲームの持つ、「それが困難な活動をもたらすがゆえに、ある目標が受け入れられる」という構造を、アリストテレスの提示した、「キネーシス」と「エネルゲイア」の概念と対比させます。
アリストテレスのいうキネーシスとは、東京へ車を走らせることが東京にいることを目的とするように、それ自体とは別の目標を目指すような活動のことです。その活動は、その目標の達成によって終了します。対照的に、エネルゲイアとは、外部目標に向けられるのではなく、その終末を内部に持つような活動のことです。例えば、瞑想はエネルゲイアである。なぜなら、それは自己を超えた何ものも生み出すことを目的としないからであり、「満足している状態」も同様にエネルゲイアです。そしてエネルゲイアは、キネーシスとは異なり、無限に継続させることができます。
そして、アリストテレスはエネルゲイアがキネーシスよりも価値が高いと主張しました。したがって、最良の人間の活動とは、瞑想のように継続的に行えるものでなければならなくなります。なぜなら彼は、キネーシスの価値はその目標が持つ価値から派生するものと仮定したため、その価値は目標の価値に従属させられる、単なる手段に過ぎないからです。
ハーカは、これに対し、現代的価値の特徴は、このような前提を否定し、必然的に外部目標を目指す活動であっても、その価値が目標達成の過程の特徴に完全に依存するという意味で、その活動自体に内在する価値を持つと主張しています。ハーカは、マルクスやニーチェの思想を参照し、この見解を擁護しています。目標そのものは他愛のないものとなるゲームは、このような現代的価値志向の活動の代表的な例となるわけです。
参考文献
Hurka, Thomas. “Games and the Good.” Aristotelian Soceity Supplementary Volume 80 (1): 217-235.
美学者とは
美学者の役割
- 【美的判断】なぜある人が「美しい」と感じる対象を、別の人は「そうでもない」と思うのか
- 【芸術作品の価値】作品が私たちの感性に与える影響を、どう評価し、言葉で説明できるか
- 【日常の美】ファッションやインテリアなど身近なところに潜む「美しさ」をどのように考えるか
こうした問いに取り組むのが美学者の役割です。近年では、ゲームの体験やデザイン、スポーツや身体表現、さらにはSNSなど、従来は「美学」とはあまり結びつかなかった分野にまでその探究範囲が広がっています。哲学や芸術学と深く関係しながら、現代社会のあらゆる「感性の問題」に光を当てるのが、美学者と呼ばれる人々なのです。

【PROFILE】
北海道帯広市出身。早稲田大学文学研究科博士後期課程在籍。専門は、ゲーム研究、美学。主な論文に、「個人的なものとしてのゲームのプレイ: 卓越的プレイ、プレイスタイル、自己実現としての遊び」『REPLAYING JAPAN 6』、「ゲームにおける自由について──行為の創造者としてのプレイヤー──」『早稲田大学大学院 文学研究科紀要 第68輯』。ゲームとファッションとタコライスが好き。
































