【連載】美学者 上野悠の「美学でひもとく世界」
美的快楽主義

最近、美学では、「美的価値」という概念についての議論がトレンドとなっています。美的価値とはその名の通り、美的なものの価値についての概念であり、これについては長らく「美的快楽主義」という立場が主流となっていました。
美的快楽主義とはシンプルな立場で、美的なものの与えるよろこび、もしくは価値ある経験によって、美的価値というものを捉えようという立場です。つまり、ある物の美的価値とは、単にそれが私たちを特定の方法で喜ばせる力のことなのです。この美的快楽主義は直観的な妥当性を備えており、長い間支配的な地位を持っていました。
しかし、近年では、ジェームズ・シェリーやドミニク・マカイヴァー・ロペスといった、研究者たちがこの立場に対する体系的な反論を試みています。その結果、その牙城は今や崩れつつあり、美的価値についての議論が白熱しているのです。今回は、美的快楽主義に対する主流な反論をサーベイした、Servaas van der Bergの論文をもとに、この議論についてご紹介いたします。
快楽主義あれこれ
まず、美的快楽主義の特徴を明らかにするために、3つの区別が役立ちます。快楽主義にも様々な立場があり、ある快楽主義理論のバージョンがこれらの区別に対してどのように位置付けられるかは、その理論がどのような反論に直面するかに関わるのです。
線引きと規範性

まず、美的価値についての理論が回答すべき2つの質問の区別を指摘することが、快楽主義への批判者たちの間で急速に標準化されています。
「線引き問題」は、美的価値が美的であるとは何か——他の領域の価値と何が異なるのか——を問います。一方で、「規範性問題」は、美的価値が価値であるとは何かを問います。
快楽主義は規範性問題に、美的価値を快楽的価値に還元することで回答します。つまり、「美的価値が理由を生み出すのは、私たちが快楽を追求する理由があるからである。美的価値の根拠とされる経験は快楽であり、少なくとも最終的に快楽のような価値を持つため、私たちはそれらを追求するそれ以上ない理由を持つ」のです。
線引きに関する問題については、美的快楽主義は答えを導き出しませんが、美的経験の理論を指し示すことでアプローチを推奨します。美的快楽や経験と非美的快楽や経験を区別するものが、快楽や価値ある経験に根ざす価値が美的に特有であるかどうかを決定する、という考えです。
また、重要なのは、規範性問題への回答です。美的快楽主義は、単に「美的価値を有するものの種類を特定する」ための「列挙的理論」として評価されるべきではありません。そうではなく、「説明的理論」として評価されるべきなのです。どういうことかというと、つまりは、美的なもののよさの根本的な根拠やそれが理由を与える特徴、それがなぜよいものであるのかを説明しなくてはならないのです。
狭義の快楽主義と好ましさに基づく快楽主義

美学的快楽主義を評価する上で重要な第二の区別は、快楽主義者が依拠する美的快楽や経験に関するものです。この区別を理解するために、まず快楽そのものに関する理論を検討しましょう。哲学的な快楽の理論は、通常、以下の2つの立場に分類されます。一つ目の、「感じられる質」または「内在主義的」な説明は、快楽をその現象学的な特徴によって特徴付けられると主張しています。つまり、すべての快い経験に共通する特有の感覚、またはすべての快い経験が共有する快楽的な「トーン」によって、特徴づけられるというのです。美学を超えた価値理論において、快楽を「感じられる質」に依拠する快楽主義者は「狭義の快楽主義者」と呼ばれます。
一方で、経験の多様性に動機付けられ、快い経験を分析する「態度論的」または「外在主義的」説明は、すべての快に共通する単一の現象学的特徴が存在することを否定します。そのかわりに、快を、主体が自身の進行中の経験の一つに対して持つ、ある種の志向的または評価的な態度として考えるのです。したがって、態度論的説明では、快楽は単に適切に好まれ、望まれ、好き、または価値ある経験として現在進行形で生じているものとなるのです。狭義の快楽主義とは対照的に、快楽を態度論的に捉える快楽主義理論は、「選好快楽主義(preference hedonism)」と言われます。

この区別は美的快楽の理論にも適用されます。現代の美的快楽主義は、美的快楽の態度論的解釈と特に相性が良いことが指摘できます。美的快楽において、態度論的解釈を採用する理由として挙げられるのは「痛みを伴う芸術の問題」です。一部の芸術作品(悲劇など)は、不安定、不快、感情的に負担となる、または痛みを伴う経験の特徴にその美的価値を負っています。この事実に対処する方法はさまざまですが、一般的な戦略の一つは、美的価値の根拠となる経験のクラスを拡大し、ポジティブな快楽的トーンを欠く経験や、明確に否定的な感情的質を有する経験を含むようにすることです。この「痛みを伴う芸術の問題」を回避する動きは、現代の美的快楽主義者が自らの理論を「美的経験主義」と称し、単純な快楽主義を回避しようとする理由となっています。
美的経験主義者にとって、美的経験の価値の根拠となるのは、その現象学の快楽的な特徴ではなく、私たちがそれらを「価値あるものである」と考える点です。言い換えれば、美的経験論者は、美的経験や快楽を、感情のトーンとして単に快いものではなく、評価的な態度として、価値あるものとされる経験として捉えます。
ベーシック快楽主義と標準化快楽主義

快楽主義への反論で重要な役割を果たす3つ目の区別は、基礎的快楽主義と標準化快楽主義の区別です。美的快楽主義はいわゆる「趣味の問題」の一種に直面します。快楽への反応は多様です。ある鑑賞者に大きな美的快楽を与えるものが、別の鑑賞者はさめてしまい、さらに別の鑑賞者は不快になる可能性があります。したがって、ある2人が何かの美的価値について意見が分かれた場合、快楽主義はどのように論争を解決すべきなのでしょうか。
この問題は、快楽主義のような反応依存的な美的価値理論にとって特に深刻です。なぜなら、快楽主義は美的価値を経験の価値に還元するため、彼らにとって、それは単に「誰の経験が世界の美的状態を正確に反映しているか」という認識論的な問題ではなく、「誰の経験が世界の美的状態を決定または構成するのか」というものになるのです。
快楽主義は、「趣味」の問題に対応するための多様な選択肢を持っています。相対主義の極限に位置するような立場は、ベーシック快楽主義を採用します。この立場は、すべての美的価値を個々の主体に結びつけ、美的価値の相互主観性と時間的安定性を否定します。つまり、すべての鑑賞者は独自の基準を設定し、美は鑑賞者の目の中にしか存在せず、鑑賞者は常に正しいのです。これは問題の解決というより問題の否定に近く、美学の分野でこの立場を魅力的だと考える人は多くありません。
より人気のある選択肢は、スペクトルのもう一方の普遍主義的な極に近いものです。これは、美的快楽のための快楽的に理想的な傾向のセットが存在し、これが趣味の問題を解決するための基準を定めるという立場です。この立場は、「理想的鑑賞者」という概念で表現されます。理想的鑑賞者は、美的快楽の最大化に完璧に調整された感覚を持つ理想化された存在であり、彼らの仮定的な判断が美的価値に関する美的事実を決定するのです。
理想的鑑賞者に対する反論
さて、Van der Bergはここからさらに主要な反論を6つ紹介しますが、今回は、6つめの、おそらくもっともクリティカルだと思われるひとつを紹介します。
美的快楽主義に対する第6の批判は、現在の最も洗練された快楽主義の形態が依存している、理想的鑑賞者のモデルを揺るがすことにあります。確かに、理想的な鑑賞者に依拠しない快楽主義は存在しますが、理想的鑑賞者を中心においた快楽主義は、完全に発展し広く影響力をもっています。そのため、理想的な鑑賞者モデルを覆すことは、快楽主義とその競合相手との間の競争条件を平等にするための大きな一歩となるでしょう。
快楽主義の批判者は、理想的な鑑賞者モデルに対して三つの批判を提起しています。第一は認識論的な批判です。理想的鑑賞者を特徴付ける感性の繊細な性質を考慮すると、非理想的な鑑賞者——理想的鑑賞者の感性に非常に近いものを含め——が、なにが鑑賞に値するアイテムなのかを知ることは不可能であると主張されています。この主張が正しい場合、理想的鑑賞者モデルは、一般の鑑賞者が最高の美的財を見つけるための指針を提供する任務に不適格であることになります。
しかし、これが快楽主義にとって痛い反論となるのは、理想的鑑賞者モデルがそのような指針を提供することがその目的である場合だけです。多くの快楽主義者が考えるように、理想的鑑賞者は認識論的な目的ではなく、形而上学的な目的のための理想化です。美的快楽主義は、理想的鑑賞者のような理想化に依拠して世界の美的状態を決定しつつ、その世界を探索する認識論的・実践的な課題は、現実の肉体を持った、誤る可能性を持つ、批評家や鑑賞者に委ねることは、原則的に何ら妨げられないのです。

第二の批判はより厄介です。この反論は、理想的鑑賞者が理想化であるだけでなく、理想そのものを表す点に依拠しています。すなわち、美的価値の全体に無条件にアクセスできる感性を備えるという理想です。ニック・リグルは、この美的理想の像に異議を唱えています。
彼は、快楽主義の理想が推奨する「理想的鑑賞者の感性を自己のなかに育てるプロジェクト」は、特定の美的対象への意味のある個人的な絆の維持と涵養と矛盾すると主張します。リグルにとって、これは個人的な美的絆が私たちの美的生活に明らかに重要であることから、理想的鑑賞者モデルへの反論となるのです。
最後に、ドミニク・マカイヴァー・ロペスは、標準化された快楽主義が、説明すべきものを説明できないとして、理想的鑑賞者モデルに対する第三の批判を展開しています。ロペスにおいては、理想的鑑賞者モデルの普遍主義が、個人の美的コミットメントへの脅威を提示する点ではなく、現実の美的行為の特異性との不一致が問題視されています。
現実世界の美的主体性(美的価値に敏感な主体性)は、深く社会的に埋め込まれており、美的領域と活動によって専門化され、文脈の違いを超えて信頼できるほど安定している特性に依存しつつも、新たな状況に適応できるような柔軟性を備えています。これに対し、理想的鑑賞者によってモデル化された専門家の主体性は、社会的依存から解放され、領域一般化されており、柔軟性に欠け、専門的な認知的・実践的スキルに十分に根ざしていないのです。したがって、理想的鑑賞者モデルは、現実世界の主体者の美的行為を捉えるのに不適切であり、さらに、その行動を形作る価値を捉えるのにも不適切となるのです。
理想的鑑賞者への反論が示すもの

Van der Bergによると、理想的鑑賞者に対する反論は、反論の中でも最も「革命的」です。これらの批判は、快楽主義をその内部から否定しようとするのではなく、快楽主義プログラムの核心を攻撃しているのです。
具体的には、その方法論的仮定と、対象とする説明対象の理論以前の解釈に挑戦しています。方法論のレベルでは、これらの批判は、美的価値理論は非理想的な理論化を優先すべきだと示唆しています。その第一の目的は、複雑な美的現実を探索する生身の人間としての美的エージェントに指針を提供することです。
さらに、これらの批判は、快楽主義プログラムが美的判断の性質と適切性条件を、美的価値の理論化における出発点とする伝統的なアプローチを問題視しています。快楽主義プログラムが対象とする説明対象の構成において、理想的鑑賞者モデルを批判する論者は、私たちの美的好みとコミットメントにおける個人差と特異性、および美的領域と活動による専門化が、美的生活の中心的事実であり、美的価値の理論によって単に容認されるのではなく、積極的に説明されるべきだと主張しています。

したがって、理想的鑑賞者モデルに対する批判は、快楽主義理論の内容だけでなく、その方法論と前提としている仮定を攻撃することで、他の5つの批判よりも美的快楽主義に対してより根本的な挑戦を提起しているのです。
理想的鑑賞者に対する反論に応えるためには、快楽主義者は、既存の快楽主義理論を、対抗する代替案に対して全体として防衛するか、または提案された代替的な美的価値理論が、規範的な質問に対する広義の快楽主義的な解答を依然として支持しうることを示す必要があります。これらのいずれの対応も、既存の快楽主義理論に補足や マイナーチェンジを加えるだけでは実行できず、最終的には、他の選択肢を考慮して快楽主義プログラム全体を再考することが必要となるものなのです。
このようにして、快楽主義の優位性が少し揺らぎ始めた昨今の美学界隈は、美的価値に関する新たな研究にとって、これまでにないほど有望な時代が到来してきているのです。
参考文献
Van der Berg, Servaas. 2020. “Aesthetic Hedonism and Its Critics.” Philosophy Compass 15 (1):e12645.
美学者とは
美学者の役割
- 【美的判断】なぜある人が「美しい」と感じる対象を、別の人は「そうでもない」と思うのか
- 【芸術作品の価値】作品が私たちの感性に与える影響を、どう評価し、言葉で説明できるか
- 【日常の美】ファッションやインテリアなど身近なところに潜む「美しさ」をどのように考えるか
こうした問いに取り組むのが美学者の役割です。近年では、ゲームの体験やデザイン、スポーツや身体表現、さらにはSNSなど、従来は「美学」とはあまり結びつかなかった分野にまでその探究範囲が広がっています。哲学や芸術学と深く関係しながら、現代社会のあらゆる「感性の問題」に光を当てるのが、美学者と呼ばれる人々なのです。

【PROFILE】
北海道帯広市出身。早稲田大学文学研究科博士後期課程在籍。専門は、ゲーム研究、美学。主な論文に、「個人的なものとしてのゲームのプレイ: 卓越的プレイ、プレイスタイル、自己実現としての遊び」『REPLAYING JAPAN 6』、「ゲームにおける自由について──行為の創造者としてのプレイヤー──」『早稲田大学大学院 文学研究科紀要 第68輯』。ゲームとファッションとタコライスが好き。

































