【連載】美学者 上野悠の「美学でひもとく世界」
共同体中心の美的価値論

前回に引き続き「美的価値」についての議論です。前回は、ジェームズ・シェリーという人の美的価値についての拳固の議論そのものを拒否するようなやや特殊な理論を紹介してしまったのですが、今回は、「反快楽主義」的立場から快楽主義のオルタナティブを模索しようとするニック・リグルによる議論を紹介いたします。
リグルの理論はその名も「美的共同体主義」です。美的共同体主義も美的価値の問題に答えるための議論であり、ざっくりいうと(そのままですが)、美的なものは「美的共同体」をよくするものであるゆえに価値があるのだ、という理論です。
リグルが問題視しているのは、だいたいの美的価値の理論が個人主義的であることです。つまり、それらが捉えようとする範例と、解答として提示される問いは、個人の美的価値との関わりを中心としているのです。リグルは、そのような個人主義が誤りであることを示唆する考察を提示し、美的価値の本質に関する問いを提起し解答するような、共同体主義的アプローチを提案するのです。
美的ネットワーク理論

美的価値論の中で有力な立場だった「美的快楽説」が昨今、様々な立場から攻撃されているというのは前回の記事でも説明しましたが、そのなかでもドミニク・マカイヴァー・ロペスは、さらに代替理論として「(美的)ネットワーク理論」というものを提示しています。しかし、リグルは、そのネットワーク理論をさらに批判し、その問題点を膨らませることで自らの理論の提示につなげています。
リグル曰く、美的価値に関する問題に取り組むための「原初的問い」として、ロペスは「美的なものはなぜ私たちの人生をよくするのか」という問いを採用しています。これは、美的快楽主義が、「私を感動させる要素が何であるかを知っても、なぜそれらを含む人生がより良くなるのかは説明していない」という問題を含んでいるというロペス自身の批判にもとづいて組み立てられた問いです。ロペスはこの問いをより哲学的に興味深い問いにするために、「規範的問い」に変換します。
規範的問い:美的価値はどのように実践的規範性を生み出すのか、すなわち行為の理由を与えるのか
この規範的問いは、言い換えると、美的価値は、それに応じて実際に行われる行為——収集、賞賛、模倣、保存、擁護、キュレーション、複製、創造、共有など——を行う理由をどのように与えるのか、さらに言えば、美的価値は、人と人との間にうまれる評価や反応の差異に直面した際に、自らの美的実践を正当化するために訴えなければならない理由を、どのように与えるのか、という問いです。
これに対するロペスの答えは、「個人の達成」に訴えるものです。ロペスの考えによれば、私たちの美的生活は美的達成——私たちが取り入れた美的実践において行動すべき美的理由に関与する美的行為の成功——に満ちているものです。まとめると以下のようになります。

私たちが美的生活の中で適切に行為するとき、それが適切であるのは、それが美的に行為する方法だからです。それが美的に行為する方法であるのは、その実践に卓越した、関連する美的専門家がそうするであろうことだからです。専門家が行うようなことを行うことは達成であり、そのような行為をすることで我々は成功することとなり、ゆえに、よりよく行為する理由となるのです。
もし他者との間の評価や反応のちがい──美的多様性──に直面した時、われわれは自身を惹きつける美的価値に訴えることができるのですが、その美的価値とは、ある方法(あなたの方法)を他の方法(彼らの方法)よりも正当化するような、実践的理由の源泉そのものとなります。
ロペスが提示する美的価値の「ネットワーク理論」は一連の形式的定義から成ります。この理論は規範的問題の装いをもって根源的問題に答えるよう設計されており、美的価値が如何にして行動の理由を与えるか、という問いに対して、ロペスは美的価値が理由を与えるものとなる条件を次のように定式化します。
テクニカルな言い方となっているのでかなり理解が難しいですが、要するに、美的価値とは、自身が属する実践において特定の方法で行為する理由となる、ということです。エスプレッソの苦味は追加の抽出を行う理由であり、俳優の完璧な演技はそれに応える演技を呼び出す理由となります。ある行為が美的達成であるとは、その行為がある種の美的卓越性を示していることを指しています。そして、美的行為者がその美的実践において行うべきことは、その実践の専門家が行うであろうことです。美的専門性は美的行為における達成能力の問題であり、対象oに関する美的行為とは、行為者のoに対する美的評価の内容に反事実的に依存するような行為です。版事実的に依存するとは、例えば、もしその塗料の色がもっとくすんでいたら、あなたはそれをリビングに使わなかっただろう、もしソースがもっと塩辛かったら、あなたはそれをサンドイッチにかけなかっただろう、といったような状況のことを指しています。

ロペスは、美的評価とは対象が美的価値を持つという心的表象であると規定する。言い換えれば、美的行為は美的長所・短所の正しい帰属に依存しています。このエスプレッソは確かに苦すぎる、このソースは塩辛すぎると正しく美的評価する能力こそが、行為における美的専門性の「中核的能力」を形成します。美味しいサンドイッチを作るという美的慣行は存在し、そこでは専門家が実践の基準を設定しています。この基準に照らせば、ベチャッとしたサンドイッチの失敗作は犬に与えることや、パサパサのサンドイッチにソースをかけてましにすることがなぜ美的に正しいのかを説明できるのです。こうした規範は美的専門性に根ざし、関連する実践に参加するわたしたちを捕捉し、ある行動様式を他のものよりも優先して選ぶ理由を与えます。
ネットワーク理論とその問題点
ネットワーク理論によれば、美的価値とは、わたしたちが従事している実践において行為する理由です。特定の美的実践に属していない場合、その規範はあなたに影響を与えず、したがってその美的価値はあなたの行動に対して規範的な拘束力を持たりません。この見解では、ある実践において行動する美的理由があるのは、その美的実践に属している場合に限られます。
ここで疑問が生じます。では、なぜその、特定の美的実践を選ぶのでしょうか。また、他の個人の美的生活や実践——その特有の価値、行動、達成——が自身のそれに及ぼす影響についても疑問が残ります。なぜ他者の美的生活が私や私の生活、あるいはあなたやあなたの生活に関わってくるのでしょうか。ロペスは「外部者的懐疑者」の立場でこの疑問を提起し、その重要性を指摘しています。ロペス曰く、われわれはみな、外部者的懐疑者です。というのも、美的実践に従事しているのが自分たちだけではないからであり、ロペスの原初的疑問が浮き彫りにするように、他者は自分とはかなり異なる美的生活を送っていることがありうるからです。

しかし、リグルが言うには、ネットワーク理論はこの問いに対して十分にこたえられていません。ネットワーク理論にもとづけば、自分とは違う嗜好の人と出会い、自分の正当性に危惧を抱いた場合、もし私が正しく行為しているならば、私の美的実践においてそうする美的理由があると言うことができます。なぜなら、そうすることで私は自らの実践の規範に従って達成しているからです。ネットワーク理論で規範的問いに答えれば、他者とその美的実践は原始的問いを立てた時よりもさらに遠ざかることになります。なぜならば、他者の美的行為や反応が自分と異なっても問題にならないことになるからです。「美的多様性」を重視するリグルからすると、ネットワーク理論は、ネットワーク理論は部分的な回答しか提供せず、それによって、本来動機づけるべき問いそのものを覆い隠してしまっているのです。
一応、ロペスは外部者的懐疑者の問いに答えを用意しており、そのうちの一方によれば、いわゆる「外部実践」——現在従事していない美的実践——に関わる美的決断に直面した際、我々は「どの実践が私の実践に最も類似しているか」を問うべきということになります。類似した実践こそが、私が達成する可能性が高く、したがって最も行為すべきことを導き出す美的理由を提供します。この見解によれば、
(2)それらの理由は自身の現在の実践との何らかの関係によって生成されます。
リグルはこれを、外部実践に関する合理主義的個人主義と呼びます。
美的共同体主義

リグルは、ロペスの示唆する美的個人主義と対照的なものとして、リグルが美的共同体主義と呼ぶものを提案します。美的共同体主義とは、美的現象の所在を個人を超えたもの——社会性、共同体、文化、人々、人類——として扱う傾向のことを指しています。共同体主義者は、はじめから集団的な美的生活を視野に入れる傾向があり、したがって彼らを真に感動させる美的価値のパラダイムは、個人の経験や専門家の達成ではなく、次のようなものであると言います。
- 共に食事をする美しさ
- 冗談やコメント、物語に共に笑い合う喜び
- ある人のスタイルが他者に美的行動を起こさせる力
- 集団で踊ること
- 集団的美的創造の興奮(例:バンド演奏、共同調理)
- 集団歌唱の幸福感
個人主義者が美的生活を専門性や鑑賞眼を中心に構築すると考えるのに対し、共同体主義者は美的共同体を中心に構築すると考えます。個人主義者が美的主張を評決や合意の要求として扱うかもしれないところ、共同体主義者は共同参加への招待と見なします。美的共同体主義において、美的価値は私の喜びや達成を通じて私に帰属するものではなく、私たちが共に創造し、共有するものなのです。
共同体主義者を駆り立てるのは、美的価値が世界中で共同体の力となり、それがなければ私たちははるかに結びつきが弱く、調和を欠き、人間らしさを失うということです。よって、共同体主義の文脈における根源的な問いとは、共同体主義的強調を加えたロペスの問いそのものとなります。つまり、「美的価値はどのようにして、我々が我々の人生の中で与えた重要性に値しているのか」という問いです。
共同体主義者は「私たちの人生、人類を、より良くするのは何か」という、個人主義者とは異なる問いを立て、別の結論に至ります。専門性や達成は善でありますが、それらは最高の美的善ではありません。共同体主義者にとって、美的共同体こそが最高の美的善であり、美的価値は美的共同体を育み維持します。専門性はそれに貢献しうる多くの要素の一つに過ぎず、全てではないのです。
共同体主義者は、美的生活を主に個人が持つもの、あるいは根本的に個人に利益をもたらすものと見なすべきではないと強調します。その結果、他者の美的生活は関わる理由がほとんどない、あるいは全くない異質な生活ではありません。美的共同体主義者にとって、美的生活は深く他者に関わり、他者を気遣うものなのです。

さらに、美的共同体主義は、達成ではなく、美的価値づけという共有された実践によって実現される、より高次の善に焦点を当てています。このことを考えるために、リグルはまず、美的生活について考えるよう促します。美的生活は美的価値と関わる生活であり、だれもが持っているものです。美的生活とは、「ユーモアのセンスを持ち、遊び、リズムに身を任せ、味や視覚的なニュアンスに注意を払い、室内空間を創造的に整え、身だしなみを整え、主題を聞き取り、筋書きを把握し、芸術を創造、あるいは解釈すること」です。それはスタイル感覚を持ち、デザインの目利きを持ち、文学や香り、音に対する趣味を持つことであり、美的価値と関わるあなたの人生は、美的価値づけの実践そのものなのです。 つまり、なにかを美的に価値づけることと美的生活は密接に結びついているのです。
リグルによると、私たちの美的生活は相互に依存しています。美的生活の中で求める「善」とは、互いに頼り合いながら作り出し、分かち合い、提示し、強調し、価値を見出すものなのです。美的共同体の中では、ある人のスタイルが別の人のスタイルを刺激し、そのスタイルがまた別の誰かを刺激するものなのです。
個性、美的自由、美的共同体
リグルは、美的価値の「原初的問い」に答える形で次のように述べます。美的生活はそれなしでは得られない共同体の善をもたらすからこそつづける価値があるのです。美的価値づけの実践は、これらの善によって構造化された実践と定義することができ、美的価値とは、美的評価の実践において特定の役割を果たすもの——すなわち美的評価の実践に値するもの——と定義されます。そしてリグルは、特定の公益に焦点を当てた具体的な共同体主義的美的価値理論を提示することでこのことを具体化します。
美的関与の共同体主義的パラダイムにおいて、人々は特別な方法で交流します。それは彼らの美的価値づけの実践に依存し、それを増幅させるものである。美的財の創造と評価を通じて、人々は自己を表現し、個性を育み、創造的かつ開かれた形で互いに関わり合うのです。リグルは、個性、美的自由、美的共同体という3つの美的財を強調し、美的価値づけの実践とは、まさにこれらの財によって構造化された実践であると述べます。
リグルは、実践に値するとは、美的価値づけの実践に積極的に貢献すること——つまり、それに関わることで美的価値づけの実践が円滑に進むような形で、個性、美的自由、あるいは美的共同体の源泉となることとなるのだとしたうえで、美的共同体を次のように定式化します。
一方で、こうした構造を持つことで、理論は、実践を構造化する諸善を非循環的に定義することを迫られます。つまり、美的価値づけ実践を諸々の美的な善によって定義する一方で、同時に美的価値を美的価値づけの実践によって定義するということで堂々めぐりとなってしまうのです。これに対しリグルは、個性の確立、美的自由、美的共同体という三要素は、いずれも美的価値を参照せずに定義可能であるということを示すことでカバーしようとします。
対象中心主義からの転換

リグルは、最後に、共同体主義が生み出す帰結の一つについて述べます。リグルが言うには、共同体主義は、美的価値の所在に関する我々の思考に劇的な転換をもたらします。伝統的に、美的価値の所在は美的対象——絵画、カクテル、音楽作品、服装——にあるとされてきました。リグル曰く、この「対象指向性」は他のあらゆる美的価値理論あいだで共通しているものです。しかし共同体主義者は、この対象指向性を個人主義の罪と見なします。というのも、共同体主義者は、美的関与の社会的価値と、美的対象がその関与を促進する方法を強調しており、価値は共同体全体の関与にあるからです。したがって、美的対象は、これらのより高次の善に次ぐものであり、それらに奉仕するものなのであり、美的価値や美的生活の主役にはならないことになるのです。この点は、C・ティ・グエンの「プロセスアート」の議論とも強調するものがあります。リグルの理論もまた、従来の美学の強力なパラダイムに挑戦しようとしているのです。
参考文献
Riggle, Nick. 2022. “Toward a Communitarian Theory of Aesthetic Value.” Journal of Aesthetics and Art Criticism 80 (1):16-30.
美学者とは
美学者の役割
- 【美的判断】なぜある人が「美しい」と感じる対象を、別の人は「そうでもない」と思うのか
- 【芸術作品の価値】作品が私たちの感性に与える影響を、どう評価し、言葉で説明できるか
- 【日常の美】ファッションやインテリアなど身近なところに潜む「美しさ」をどのように考えるか
こうした問いに取り組むのが美学者の役割です。近年では、ゲームの体験やデザイン、スポーツや身体表現、さらにはSNSなど、従来は「美学」とはあまり結びつかなかった分野にまでその探究範囲が広がっています。哲学や芸術学と深く関係しながら、現代社会のあらゆる「感性の問題」に光を当てるのが、美学者と呼ばれる人々なのです。

【PROFILE】
北海道帯広市出身。早稲田大学文学研究科博士後期課程在籍。専門は、ゲーム研究、美学。主な論文に、「個人的なものとしてのゲームのプレイ: 卓越的プレイ、プレイスタイル、自己実現としての遊び」『REPLAYING JAPAN 6』、「ゲームにおける自由について──行為の創造者としてのプレイヤー──」『早稲田大学大学院 文学研究科紀要 第68輯』。ゲームとファッションとタコライスが好き。



































