【連載】美学者 上野悠の「美学でひもとく世界」
美的共同体主義への批判

前回は、ニック・リグルによる美的価値の「美的共同体主義」という理論をご紹介しましたが、今回は、その共同体主義に対する疑義と、さらにそれにたいするリグルの再反論をご紹介いたします。
リグルの共同体主義とは、ざっくり言えば、私たちにとって美的によいものは、個人的によいものではなく、わたしたちの美的生活を価値あるものとするのは「共同体の利益」の集合体であるというものでした。この共同体の利益には、個性、美的自由、美的共同体という三つの要素が含まれます。
Yujia Songは、美的生活における共同性を強調する姿勢は新鮮に感じられるが、その本質と価値は依然不明確であると指摘します。ソンは、共同体主義は私たちの美的生活について多くの正しい点を指摘しているが、美的価値については誤っていると論じます。
Yujia Songによる反論

ソンによると、リグルの理論における不可解な点は、共同体主義理論において二つの一見個人主義的な善——個性と美的自由——が中心的な位置を占める点です。リグルによって、「個性」は「価値判断実践における選択の行使から生じる個人の特徴の総体」と定義され、「美的自由」は「自己構成的傾向によって決定されない」選択を可能とする「非傾向性的あるいは『不確定な』自由」の一種とされています。この二つは、いずれも個人にとっての善であるが、いったいどのような意味で「私たちにとっての善」と言えるのかという点について、ソンは疑問を呈します。
これらの善がわたしたちのとっての善であるのは、これらを共同体の成員が追求するとき共同体にとってよりよい状態をもたらすため、共同体の善であるという答えがまず考えられます。しかしソンは、それは真実かもしれないが、この二つの本質的に個人的な善を共同体への利益によって正当化するのは誤った考え方のように思われると言います。ソンは、これは例えば、健康であることが共同体全体の健康に寄与するから健康であることがよいのだとするのと同じようにおかしなことであると指摘します。健康の場合も、共同体的善の場合も、確かにこれらは強力な副次的利益ではありますが、ソンはこれらが善である中心的な理由は個人にとっての善であるからなのではないかと考えます。だとするならば、リグルによる美的価値に関する共同体主義的理論が個人主義的代替案よりなぜ優先されるべきなのかは不明瞭になってくるのです。

美的対立
ソンは、これがリグルの論の難点を浮き彫りにするとして、「美的対立」の事例をもちだします。美的対立とは、「詩を愛する隣人が、あなたに「救いようのない駄作」に聞こえる新作詩を熱心に共有しようとする時、それは悪夢のような体験となるかもしれない」というように、美的価値についての価値観が単に差異を生み出すのではなく、「対立」しているような事例です。
では、共同体主義はこの問題をどのように扱うのでしょうか。ソンは、リグルの美的共同体定義の曖昧さがこの問題を複雑にしていると指摘します。
美的対立がリグル理論の決定的誤りを露呈する過程を示すため、まず美的共同体の概念を明確化し、三つの解釈可能性を提示し、いずれの解釈においても美的共同体理論は破綻するのだと言います。
第1第2については説明を省きますが、おそらくリグルが想定しているものに最も近い(とソンが想定している)のは第3の解釈です。

美的共同体の第3の解釈は、美的言説が「収束」規範ではなく「共同体」規範に従うと捉えます。すなわち、合意を目指すのではなく、「個性の相互評価」を目的とするのだという考え方です。したがって、対話者が相手を誤りと見なし、対立が未解決のままでも共同体は成立し得ることとなります。ひどい詩を愛する隣人を避ける代わりに、彼に対して、率直な批評を捧げることが可能となるのです。
この解釈には、個性と美的自由はより適合します。特に、美的自由のもつ「根本的な開放性」という特徴づけが、他の自由と区別する要素であるならば、おそらくそれは私たちが反対するものに向けられた時に最も優れた状態にあるだろうとソンは指摘します。他者の個性を真摯に尊重するなら、応答の在り方も真剣に考えるべきであり、適切な応答は同意ではなく批判となる場合もあるのです。
ソンは、こうした点は、リグルの見解の長所であると同時に、それが美的価値の理論となり得ない理由でもあると指摘します。
ソンは、美的価値が「美的評価の実践」、すなわち美的共同体やその他の共同体の善を促進する貢献度によって決定されるならば、対立のどちらの側を取るのが美的善として見なされるかは判断が難しくなってしまうと言います。第3の解釈では、対立が起きているような場合でも、共同体は可能であるだけでなく、対立によって活性化される可能性がありますが、そのような対立を呼び起こすような作品が、それゆえに「美的に価値がある」ということになるのです。これおかしなことであるとソンは指摘します。
さらにソンは、美的評価の実践を良好にする要素は、必ずしも美的に優れている必要はないと言います。確かに、共同的関与の特定の形態における特別な結びつきや調和は美的共同体の善を構成しますが、ソン曰く、非美的善こそが美的共同体、個性、美的自由を促進する上でしばしば不可欠となるのです。例えば、美的言説を円滑に進めるために必要な要素には、誠実さ、勇気、忍耐力、寛大さ、自己反省、批判的思考などが含まれますが、こうした善は、美的な善ではありません。つまり、ソンは、美的共同体を促進するものが必ずしも美的によい、あるいは美的によいものである必要はないと指摘しているのです。
リグルの応答

ソンの反論に対するリグルの応答は、ソンが、リグルの想定していない「結果主義的」共同体主義を標的としており、ゆえに反論には説得力がない、というものです。
ソンは、共同体主義的美的価値理論に対して大きく分けて二つの批判を展開しました。一つは、価値形成に関与する諸々の善そのものが「共同体の善」ではないという点で、もう一つが、共同体主義的見解が美的対立を扱うのに困難を抱えるという点です。
第一の反論に対する再反論
リグルは、ソンが批判の対象としているのは共同体主義の「結果主義」的見解であると指摘します。ソンが言う美的共同体主義は「あるものが美的価値または美的非価値を持つのは、それがそれらの善の実現に肯定的または否定的に貢献する程度に比例する」というものです。これをリグルは以下のように定式化します。
リグルはこの見解には、決定的な反例が数多く存在すると述べます。この見解は、実際に美的共同体を増大させないものは美的価値を欠くと示唆します。つまり、例えば、シューベルトの第九交響曲は、彼の死後、兄の家で埃をかぶっていたが、シューマンが発見し初演を手配するまで美的価値を欠いていたことになるのです。逆に言えば、そのひどさゆえに誰も体験せず、観客に披露されることもないような作品は、実際に美的共同体の価値を減少させないため、それゆえに美的価値を欠いているわけではないことになってしまいます。

それに対し、リグルの美的共同体主義は結果主義ではなく、美的評価の実践において評価に値するものは何かについて論じるものであるとリグルは言います。何かが美的価値を持つと言うとき、私たちは対話者にそれに関与するよう招き、それが実際に私たちの間に美的共同体の基盤を築くことを期待しているのです。そして、それが実際にそうなるかどうかは、ほかの無数の要因に依存しています。
この考えにより、シューベルトの隠された交響曲にも美的価値が認められることになります。なぜなら、たとえ(その時点では)誰一人としてそれを美的に評価しなくとも、作品は状況や結果にかかわらず、それが美的評価に値するということが可能だからである。
以上のことから、ソンの標的はリグルの共同体主義から外れているとリグルは言いますが、ソンの最初の反論(価値形成に関与する諸々の善そのものが「共同体の善」ではない)は結果主義だけではなく、リグルの見解にも向けられているとして、リグルは再反論を試みます。
リグルは、ソンは、共同体主義に特徴的な諸々の善が「共同体の善」でなければならないと考えているようだが、なぜそうである必要があるのかは不明であると批判します。リグルは、この反論は、ケーキの材料にケーキが含まれていないと非難するようなものであると再反論します。共同体主義は、美的価値を善たらしめるものが美的共同体であるという事実から導かれているのであり、ケーキとその材料のように、美的共同体の価値はその構成要素の価値に還元できるものではないのです。つまり、個性や美的自由など、個人に帰属されるような善とは、共同体に特徴的な善であり、共同体を構成する材料となるだけで、共同体の善そのものではない、というわけです。

第二の反論に対する再反論
ソングの第二の反論は、美的共同体主義において「美的対立が根本的な誤りを露呈する」と主張しています。もし美的価値/非価値が美的共同体の善を増大/減少させるものなら、同一の事物が異なる共同体に対して両方の作用を及ぼすことができます。ゆえにこの共同体主義は誤りか、あるいは相対主義の一形態であるというのがソンの反論でした。
リグルはこれに対して、ソンがこの問題について論じる内容の多くは興味深いが、議論全体は結果主義的美的共同体主義理解を前提としており、リグルの共同体主義が「美的価値/非価値が美的共同体の善を増大/減少させるもの」見解が誤りであるため、この反論は退けられることになります。
さらにリグルは、美的対立そのものは問題ではないと述べます。リグルは、異なる人々が異なる方法で美的評価の実践に従事し、私たちが同じ方法で美的評価を行う必要は存在しないと考えています。このことの比喩として、食文化が挙げられます。食は食べるに値するものだが、誰も全ての人の食習慣が収束すべきだとは思いません。このように、「評価に値する」ということと「実際にどのように評価されるか」のあいだにはズレがあり、そのズレを認識しておくことがリグルの理論を理解する上でのポイントです。

これと隣接する懸念は、論争を呼ぶ作品の美的価値にかかわります。多くの芸術作品は論争的、分裂的、破壊的、混乱的、苛立たしい、あるいは挑発的です。それらの美的価値は、主に、我々に挑戦し、期待に抵抗または転覆し、前提を満たさず、範疇に収まらず、意図的に注意を報いようとしない点にあるように思われます。実際、こうした作品は美的葛藤を引き起こすことを意図されており、生産的な対話、深い探究、探求的な思考、創造的な解釈を生み出す形で、人々を二極化し困惑させるのです。そしてその美的価値は、少なくとも部分的には、その挑発的あるいは二極化する特性にこそあるのです。
リグルは、評価が真っ二つに分かれるような「破壊的」な映画について考えてみるよう促します。観客の半数がそれを愛し、半数が嫌うとして、愛する者と嫌う者は、その解釈、分析、議論を楽しみます。嫌う者は嫌うことを楽しみ、愛する者は擁護することを楽しむのです。この映画は、観客が互いに支え合いながら美的能力を発揮する営みに参加させることで、実は美的共同体を生み出しています。では、それは美的評価に値することになるのでしょうか。観客の半数しか実際に評価していないのだから、どうしてそう言えるのかと疑問に思うかもしれません
しかし、分極化させる作品は美的共同体主義に問題を引き起こすというより、むしろその力を浮き彫りにするとリグルは言います。分極化させる作品の美的価値は、美的評価の実践において果たしうる役割のなかにあります。それらは、通常は互いに美的関わりを持たない実践者たちの間に美的共同体を築く独特の方法を基盤とする点で、関与に値するのです。つまり、こうした作品は、美的評価の社会的実践において関与に値することとなるのです。

今回は、リグルの共同体主義に対する批判と、それに対するリグルによる再反論をとりあげました。個人的には、この論争により、リグルの思い描いている美的共同体主義像がよりはっきりしたと感じられました。分析系の美学分野では、このようにある理論への批判とその再反論という形で論争が起こることは常であり、それによるさらなるブラッシュアップを目指すのがディシプリン全体での了解となっています。そうした点は人によってはちょっと敬遠したいところかもしれませんが、論争は(おおむね)双方のホスピタリティや議論をよりよくしようという理解の共有のもと成り立っているので、個人としては、この分野の好きなところでもあります。
参考文献
Riggle, Nick. 2025. “Community and Conflict in Aesthetic Life: a Response to Song.” Journal of Aesthetics and Art Criticism 83 (2):183-186.
Song, Yujia. 2025. “Against a Communitarian Theory of Aesthetic Value: A Response to Riggle.” Journal of Aesthetics and Art Criticism 83 (2):177-182.
美学者とは
美学者の役割
- 【美的判断】なぜある人が「美しい」と感じる対象を、別の人は「そうでもない」と思うのか
- 【芸術作品の価値】作品が私たちの感性に与える影響を、どう評価し、言葉で説明できるか
- 【日常の美】ファッションやインテリアなど身近なところに潜む「美しさ」をどのように考えるか
こうした問いに取り組むのが美学者の役割です。近年では、ゲームの体験やデザイン、スポーツや身体表現、さらにはSNSなど、従来は「美学」とはあまり結びつかなかった分野にまでその探究範囲が広がっています。哲学や芸術学と深く関係しながら、現代社会のあらゆる「感性の問題」に光を当てるのが、美学者と呼ばれる人々なのです。

【PROFILE】
北海道帯広市出身。早稲田大学文学研究科博士後期課程在籍。専門は、ゲーム研究、美学。主な論文に、「個人的なものとしてのゲームのプレイ: 卓越的プレイ、プレイスタイル、自己実現としての遊び」『REPLAYING JAPAN 6』、「ゲームにおける自由について──行為の創造者としてのプレイヤー──」『早稲田大学大学院 文学研究科紀要 第68輯』。ゲームとファッションとタコライスが好き。




































