【連載】美学者 上野悠の「美学でひもとく世界」
美的義務

美学という分野の中では、「美的義務」という概念が近年多く取り沙汰されるようになりました。しかし、美的義務と聞いてもピンとこない人が多くいらっしゃるかと思われます。たとえば、「人を傷つけてはいけない」というような道徳的な義務、「ここに駐車してはいけない」というような法的義務ならば容易に想像できそうですが、美的義務と言われても、「美的なものを好むことに義務と呼ぶほどのものは存在するのか」とか、「何が美しいかはその人な次第なんじゃ…」などと思ってしまいそうです。
しかし、例を挙げるとどうでしょうか。例えば、「ロック好きを名乗るなら、クイーンのアルバムを聞いておかなくてはならない」や、「シリーズ物の映画は『1』から通しで観なくてはならない」というような「義務」だったらなんとなく飲み込めるような気がします。
ロビー・クバラという哲学者が、そんな美的義務についての議論をまとめた論文を出してくれています。今回はその内容の一部をご紹介いたします。
義務の概念
クバラはまず、一般的な「義務」そのものについての考察からはじめます。クバラは、義務を四つの特徴群から——意味論的、論理的、審議的、反応的——から論じ、このなかで、思慮的・反応的特徴こそが、ある考慮事項が義務の地位を持つか否かを識別する特徴であると提案します。
まず、意味論(言葉や文の「意味」について探求する学問)的には、義務の存在はしばしば「~しなければならない」「~をしなければならない」「~を求められる」「~の義務がある」「~すべきである」といった行為主体の行為に関する記述によって表現されます。しかし、こうした文の集合では、義務を表す表現の一部──例えば、「約束した」や「法律である」など──を捉えきれず、またこうした文のすべてが実際に義務を指すわけでもないということをクバラは指摘します。したがって、義務を示す上で意味論的特徴は絶対的ではないこととなります。

つぎに、論理的にはどうでしょうか。論理的に言えば、義務はしばしば、ある形式の中で断定的であり、ある範囲内で普遍性を持ちます。「xはφでなければならない」というような論理文の「断定的」な形式は、「もしδならば、xはφでなければならない」というような「仮定的」な形式とは異なります。義務とは、ある行為者の特定の欲求や利害(δとして表現されるようなものです)とは独立して効力を有するのです。
しかし、これらの論理的特徴を特に美的義務を示すものと見なすことには問題があるとクバラは言います。というのも、美的義務における「条件つき義務」の存在がこの普遍性を複雑にしているからです。条件つき義務は「もしAを選択するなら、CではなくBを行うことが求められる」という形式をとりますが、「もし2001年宇宙の旅を観るなら、ノートパソコンではなく大画面で観なければならない」というように、多くの美的義務はこのような条件がつくことがあるのです。
審議的に言うと、義務は推論において決定力を持ちます。このことに関係することとして、義務的効力を持つ考慮事項は他の考慮事項と天秤にかけられるのではなく、その効力を遮断する効果を持つことが挙げられます。例えば、もしある人が誰かのピアノリサイタルに出席すると約束した場合、その誰かの演奏が嫌いだという事実は、その夜の行動を審議する際に十分な効力を持たなくなります。義務は理由を秤にかける以外の方法で「すべきこと」に影響を与える傾向があるのです。とはいえ、義務が決定的であるのはあくまで「推論上で」に過ぎません。なぜなら、ある領域内の義務は、その領域外の義務によって打ち消される可能性があるからです。したがって、「道徳的義務が常に美的義務を打ち消すことが判明しても、美的義務の存在に対する反論にはならない」とクバラは言います。

反応的に言うと、義務は特定の態度を適切にします。特に、それらに背いた際に他者から向けられる非難や、自らに生じる罪悪感といった反応的態度が挙げられます。ある人が義務を果たさなかった場合、正当な言い訳がない限りは非難に値する──あるいは説明責任を負う──ことになるのです。
以上のように、クバラは、審議的・反応的特徴が、美的領域で機能する最小限の義務概念を十分に明確に把握する手掛かりを与えると考えています。クバラは、以上の議論を前提として、美的義務に特有の問題に関する6つの簡潔な議論について論じていきます。
美的義務に関する6つの議論
ここから、美的義務に関する6つの議論を説明していきます。そのうち、最初の3つは美的義務に対して否定的な議論で、後半の3つは肯定的な議論となっています。
「問題」についての議論(The problem argument )
「問題」についての議論は、美学は実践的な領域ではなく、領域が実践的である場合にのみ、しかじかの行為をする義務があり、したがって美的義務は存在しない、と主張します。この議論は、通常、道徳領域との対比によって展開されており、例えば、スチュワート・ハンプシャーという学者は、「倫理の問題に匹敵する美学の問題は存在しない」と主張しています。ハンプシャーは、美的選択は、道徳的選択とは対照的に、(1) 無用のものであり、(2) 正当化の必要がない、と主張しています。まず
次に、
これに対する、譲歩的な反論は、美的選択が道徳的選択ほど緊急性を帯びていない点は認めつつも、芸術家が理由を説明すべき実践的選択に直面していることを主張することです。また、より強固な反論は、評価の普遍性において美学と道徳は実際には同等であると主張します。それによると、あらゆる行為は道徳的・美的両次元で評価可能であり、美的な次元を無視した選択そのものが美的選択となりうるのです。さらに、より広範な反論としては、ハンプシャーが芸術的創造と鑑賞的判断のみに焦点を当て、美的主体が直面する多様な実践的問題——どの映画を観るか、どのバレエ学校に入学するか、どの絵画をどこに飾るか、どの写真をSNSで共有するかなど——を考慮していない点が挙げられます。
反応的態度に関する議論(The reactive attitudes argument )
反応的態度についての議論は、美的義務において正当な反応的態度は存在せず、正当な反応的態度がある場合にのみ義務が存在するのであり、したがって美的義務は存在しない、と主張します。問題議論と同様に、この議論は通常、道徳領域との対比によって展開されます。この議論の筆頭として挙げられているマーサ・ヌスバウムという哲学者いわく、美的生活は、罪悪感や後悔の感情がふさわしい「相反する愛着や義務」(1990、37 ページ)を特徴とする道徳的生活とは区別されるものなのです。しかしながら、クバラは、ヌスバウムは、美的義務がまったく存在しないとは厳密には主張しておらず、それらが決して相反することはないと主張しているだけであることにも注意を促しています。
ハンプシャーの観察と同様、ヌスバウムの指摘も芸術鑑賞者に過度に焦点を絞りすぎているように見えることが指摘できます。創作者は自らの芸術的誠実さを損なった際に不誠実さや葛藤を経験することが考えられるし、また鑑賞者も創作者と同様、自らの美的生活において自らを失望させたと感じる可能性が考えられます。さらに、ヌスバウムに対する最も強力な反論は、美的反応的態度とその正当化条件について、より明確な図式を構築することになることをクバラは示唆しています。
誘引的理由の議論
誘引的理由に関する議論は、美的理由はすべて「誘引的理由」であり、かつ、それでしかありえず、誘引的理由は義務を生じさせないため、美的義務は存在しないとします。ジョナサン・ダンシーが提唱した誘引的理由は、彼が「要求的」または「絶対的」理由と呼ぶものと対比されます。誘引的理由は「~すべき」ではなく「最善」へと導く点でそれらと異なり、義務を生じさせることなく「推奨する行為を価値あるもの、楽しいもの、刺激的なもの、魅力的なものなどとする」ものです。例えば、大画面で(めったに劇場で見れない)映画を見に行く代わりに、家でテレビの再放送を見ることを選んだとしても、いかなる要求にも違反してはいません。誘引的理由は、それらが推奨する行為を支持する一方で、熟慮する主体にそれらの主張を無視したり軽視したりするような裁量を残す形で作用するのです。

クバラ曰く、誘引的理由の存在そのものが議論の的であり、存在しないとするような主張もありますが、譲歩的な反論としては、最初の前提(美的理由はすべてかつそうでしかないような形で「誘引的理由」である)を受け入れつつ、美的義務の他の源泉を主張することです。美的価値が義務を生み出せなくとも、道徳的または実用的な価値が、稀な映画を観る義務のような、美的内容を持つ義務を生み出す可能性はあります。より強固な反論としては、美的領域に規範的要請がが存在すると主張し、したがって少なくとも一部の美的理由は誘引的ではないと論じることです。楽譜に従う理由——少なくとも西洋のクラシック演奏の実践において、全音符を演奏する理由——は、強めの義務的性質を持つことが論者によっては主張されています。誘引的理由の擁護者は、こうした現象を説明する別の方法を見つけなければならない一方で、美的義務の擁護者は、一部の美的理由が誘引的であることを否定する必要はなく、単に全てがそうであることを否定すればよいのです。
権利についての議論(The rights argument)

ここからは、美的義務の存在に肯定的な議論です。権利についての議論は、芸術作品が権利を有し、権利は義務を伴うため、芸術作品に対する義務が存在すると主張します。この議論はアラン・トーミーに由来し、彼は、芸術作品は権利を生み出し、それらの利益を尊重すべき者に対して義務を伴うような利益を有しているように見えると主張しています。こうした「利益」は、「美的苦痛」の経験において説明されます。不器用なアマチュアバレエダンサーや、下手な音楽演奏を観たり聴いたりするとき、私たちはその演じられたり演奏されたりしている芸術作品そのものが特定の例化において歪められたり貶められたりしていると感じることがあります。したがって、「我々は暗黙のうちにそれらに権利を帰属させている」のです。
クバラによると、この議論は多くの批判を受けてきたようです。最も明白な反論としては、トーミー自身が認めるように、権利に訴えずにこの現象を説明できる点です。また、別の反論としては、同じ考察は、駐車メーター、貨幣、時計、その他の非芸術的人工物にも権利があることを──少なくともそれらが利害関係を持つ範囲において──示してしまうことが挙げられます。
超義務についての議論(The supererogation argument )
超義務についての議論によると、まず、「美的超義務行為」が存在し、行為が超義務的であるのは、それが我々の義務を超える場合にのみであり、したがって美的義務が存在するというものです。行為が(美的)超義務的であるのは、(1)(美的)任意性、すなわち要求も禁止もされないこと、および(2)最低限の(美的)要求を超えること、の両方を満たす場合です。例えば、週末ごとに自然美の景勝地へ足を運ぶことで、美しいものを鑑賞するという義務を超えて行動する自然愛好家など、美的超義務的行為の例は数多く挙げられています。ちょっとテクニカルすぎますが、要するに、「超義務」なるものが存在し、「超義務」が存在するのは「義務」が存在することが前提になるため、したがって「義務」も存在しているのだ、という論証です。
これに対する一つの反論は、いわゆる超義務的行為を特に強い誘引的理由の事例として再分析するというシンプルなものです。また、第二の反論としては、超越すべき「義務的」要素、すなわち私たちの基本的義務についての積極的な説明なしには、この議論は説得力を持たないというものです。権利論では芸術作品に対する責任の概念がある程度明確であったのに対し、少なくとも現時点では、美しいものを鑑賞すること以外に、私たちの一般的な美的義務が何かについては、不明確な状態です。
ジレンマについての議論(The dilemmas argument )

ジレンマに関する議論では、美的ジレンマが存在し、義務が存在する場合にのみジレンマが生じるのであり、したがって美的義務が存在すると主張します。この議論を明示的に定式化したM・M・イートンは、美的ジレンマを二種類に分類しています。「博物館焼失事例」と「修復事例」です。博物館焼失事例では、芸術的価値が同等に高い複数の絵画がある中で、行為者は1点のみを救出できると仮定されます。修復事例では、学芸員が風化状態のまま作品を保存するか、修復作業によって不可逆的に改変するかを決断しなければならないと仮定されます。イートンの提示するジレンマは、問題論、誘引的理由論、反応的態度論への応答を含んでいます。これらは正当化を必要とするような無用でない問題であり、行為者は無視できるような裁量権を持たず、いかなる選択をしても選ばれなかった選択肢に対する正当化された感情的残滓を残すような事例なのです。
このイートンの議論に対する最大の課題は、イートンの言う美的ジレンマが実際には道徳的義務に由来する可能性がある点です。これについてクバラは、実際、美的義務に対する最も強力な反論は、それらが本質的には美的内容を持つ道徳的義務であるという主張だろう、と述べています。つまり、それらが美的行為に関わったり美的価値を参照したりするものの、究極的な源泉は道徳にあるというものです。
美的義務の源泉問題
クバラは、この反論についても詳細に検討していますが、今回ご紹介するのはここまでにいたします。そこで問われているのは、美的義務は何によって存在するのか、ということです。クバラは、美的義務についての三つの見解——道徳的見解、実践的同一性見解、社会的実践見解——を紹介していますが、これらはいずれも、最も根本的なレベルにおいては美的義務が美的価値によって成立することを否定しています。
とはいっても、これらの見解において、美的価値についての事実は美的義務の内容を構成しているのですが、その理由が義務的効力を有するのは、道徳的義務、個人の実践的同一性、あるいは社会的同一性との適切な関連性によってのみである、ということになります。

これらに対して、クバラが挙げる、第四の見解は、例えば「単にある対象が美しいという理由だけで」鑑賞の義務が生じるという考えを正当化しようとしているものですが、この説明がとり得る有力な立場はいわゆる、「原始主義的立場」です。この立場の主張とは、美的価値が理由を与える仕組みについて真の説明的価値主張を得ることは不可能であり、それは例えば幸福感が理由を与える仕組みについて真の説明的価値主張を得られないのと同様である、というものです。いずれにせよ、クバラは美的義務の議論については、さらなる慎重な議論の蓄積が必要だと述べており、これから盛り上がっていきそうなトピックとして期待ができそうです。
参考文献
Kubala, R. 2020. “Aesthetic obligations. Philosophy Compass.” 15: e12712.
美学者とは
美学者の役割
- 【美的判断】なぜある人が「美しい」と感じる対象を、別の人は「そうでもない」と思うのか
- 【芸術作品の価値】作品が私たちの感性に与える影響を、どう評価し、言葉で説明できるか
- 【日常の美】ファッションやインテリアなど身近なところに潜む「美しさ」をどのように考えるか
こうした問いに取り組むのが美学者の役割です。近年では、ゲームの体験やデザイン、スポーツや身体表現、さらにはSNSなど、従来は「美学」とはあまり結びつかなかった分野にまでその探究範囲が広がっています。哲学や芸術学と深く関係しながら、現代社会のあらゆる「感性の問題」に光を当てるのが、美学者と呼ばれる人々なのです。

【PROFILE】
北海道帯広市出身。早稲田大学文学研究科博士後期課程在籍。専門は、ゲーム研究、美学。主な論文に、「個人的なものとしてのゲームのプレイ: 卓越的プレイ、プレイスタイル、自己実現としての遊び」『REPLAYING JAPAN 6』、「ゲームにおける自由について──行為の創造者としてのプレイヤー──」『早稲田大学大学院 文学研究科紀要 第68輯』。ゲームとファッションとタコライスが好き。








































