【連載】美学者 上野悠の「美学でひもとく世界」
私たちはしばしば「スタイル」を持つ
当コラムにおいて筆者である私は、一応は「美学者」を名乗っているのですが、最近美学についての記事を全然書いていなかったこともあり(スポーツの記事ばかり書いていたような気がします)、今回は美学に関わるお話をしたいと思います。
とはいっても、芸術作品の存在論や、美的○○とはなにかなどといったような、ど真ん中美学の話というよりは、もっと私たちの生活に身近な話(最近の美学分野における流行りではあるのですが)をしていきたいと思います。
今回の話はずばり「スタイル」についてです。皆さんはこの語についてどういった印象をお持ちでしょうか。この場合のスタイルとは、たとえば、「問題点の整理から始めるのが私のスタイルです」とか「いつもスーツでびしっと決めるのがあの人のスタイルだ」といったような言明に使われる際の「スタイル」です。前者は仕事の、後者はファッションにおける、誰かしらの「スタイル」についての記述ということになりますね。もっと聞きなじみのある言い方だと「流儀」という言葉が近いでしょうか。
こうした「スタイル」とぃう概念を私たちは日常的に使っている(はず)ですが、実際のところ、「スタイルとは何なのか」と問われると、(例によって)答えに窮してしまうのではないでしょうか。一つの答え方としては、「スタイルとは、その人の個性の表現である」というものが挙げられるでしょう。この答えは、直観的にも、かなり的を射ているように思えるのではないでしょうか。上記の二つの例から言っても、このことは正しいように思えます。
しかしながら、この答え方には実は問題点があるのです。そのことを指摘し、「スタイル」についての別の捉え方を提案したのが、今回取り上げる、サンディエゴ大学で准教授を務めている美学者のニック・リグルによる論文です。先に結論だけ言うと、リグルはスタイルを、ある人の「理想の実現」として捉えることを提案します。
リグルによる「パーソナルスタイル」論
ここからは、ニック・リグルの論文“Personal Style and Artistic Style.”に沿って、リグルの考えるスタイル概念について追っていきましょう。
スタイルは「達成」である
リグルはまず、パーソナルスタイルについて、次のような考えが共有されていることを確認します。すなわち、スタイルとは誰しもが持っているわけではないということです。誰かについて「あの人はスタイルを持っている」と言うとき、私たちはそれが特別なことであるかのように考えます。つまり、スタイルを持つことは何らかの意味での達成であり、努力を要することなのです。
それに対し、「誰しもがスタイルを持っているのではないか」と考えるひともいるかもしれません。しかし、わたしたちには、スタイルがあると思う人々を賞賛する傾向があります。ある人のスタイルを称賛したり、スタイルを持てていること自体を称賛していたりするのは、一般的に行われていることであると言えるでしょう。
もし、スタイルが単なる物事のやり方であるならば、何かをする人には誰にでもスタイルがあることになります。そうであるならば、スタイルを持っていることが、わざわざ賞賛されるのは少し変なことになってしまうでしょう。そういうわけで、少なくともここでリグルが探ろうとしているスタイルとは、誰しもが持てるものではなく、ある種の達成として捉えられるものである、ということが前提されます。
芸術的スタイル
パーソナルスタイルについてある程度整理したところで、みなさんなんだか結構重要かつ興味深いものに思えてきたのではないでしょうか(そう思ってくれれば幸いなのですが)。しかし、パーソナルスタイルを探求するには、あまりにもそれについての研究がなされておらず、議論の蓄積が少ないという問題があります。
そこでリグルは、主に美学分野における「芸術的スタイル」という、比較的検討がなされている概念に着目します。リグルが言うには、スタイルに関する両方の理論は同じ線に沿って展開されており、それらが相互に明らかにし合うことができるのです。
芸術的スタイルについては皆さん想像がつきやすいのではないでしょうか。芸術的スタイルとは、その人に特徴的であるように思われている芸術上のテクニックや表現方法のようなもので、いわゆる「作風」と似たようなものとして捉えるのがわかりやすいかもしれません。芸術におけるスタイルは達成であり、間違いなく非常に価値のあるものです。それでは、芸術的スタイルとはどのようなものなのでしょうか。
リグルは、芸術的スタイル(特に文学における)については、ある程度の同意が取れていると言います。それはつまり、芸術的スタイルとは、「作家の個性の表現である」という考えです。リグルはリチャード・ウォルハイムの整理(Wollheim 1979; 1990)に基づいて、個々の(芸術家の)スタイルとは、芸術活動において安定した指導的役割を果たし、彼の作品(少なくともその一部)に芸術的特徴を与えるような、芸術家の精神的特徴として考えられていると言います。
ウォルハイムは芸術家のスタイルについて、「スタイルプロセス」という概念を用いてより詳細に論じており、それによると、(スタイルを持つ)芸術家は、
②そのリソースを操作するための一連のルールを見つけ、
③そうしたルールを採用して芸術活動を行おうとする傾向がある
とされます。
しかし、リグルはそれについて次のように指摘します。すなわち、スタイルの問題とは主に選択の問題であること、つまり、物事を、別の方法ではないある方法で行うこと、または、この技法ではなく別の技法に決めることにあるということです。芸術家が、ある特定の描き方に落ち着くことを導くものが何であるかを理解しなければ、個々のスタイルの本質を理解することはできないのです。重要なのは、無数にあるはずの採用しうるスタイルの可能性のなかから、なぜそのスタイルを選んだのか、ということです。リグルは、この問いに対応するような、スタイルの本質を考えるためには、次のような図式を埋めなければならないと指摘します。
芸術家のスタイルは個性の表現?
ここからはリグルによる緻密な議論をかなり端折ってしまいますが、上記の○○を埋めるものとしてまず挙げられるのは、「個性の表現」というものです。ある芸術家のスタイルがその人の持つ個性の表現である、というのはかなり納得のいく結論のように思えます。
しかしながら、リグルはこれを否定します。というのも、芸術家のスタイルだと思われるものには、明らかにその人自身の個性でないものが見られるからです。例えば、暗い性格の人が明るい印象を持つ絵を書き、それがスタイルとして認められることは十分にあり得るし、人嫌いの小説家が愛情に満ちた人物や物語を描くこともまた同じようにありうるでしょう。そのような例から、スタイルが個性の表現であるということは棄却されます。
パーソナルスタイルについて考える
この問題を解くために、リグルが提案するのが、パーソナルスタイルにおける類似の問題について考察することです。リグルが言うには、そうすることによって、芸術的スタイルについての理解を深めることに役立つのだそうです。では、リグルはパーソナルスタイルについて、どのように定式化するのでしょうか。
パーソナルスタイルについても、まずそれがその人の個性=人格の表現であるという考えを検討することから出発します。そして、ここにおいてもその考えは棄却されます。例えとしては、「せっかちなドライバー」が挙げられてます。この人は、交通渋滞にいらだつ傾向にあり、その行動はその人のパーソナリティーを表現しているように思われますが、そのことによってそれがその人のスタイルであるとは思えないでしょう。繰り返しますが、スタイルとは何らかの「達成」であり、それは、その人のパーソナリティーの単純な表現ではないのです。
スタイルは理想の表現
そこでリグルが着目するのが、スタイルは「私たちが体現する価値があると思えるようななんらかの特徴を表現しようとする実践である」という考え方です。それは、わたしたちが「なりたいと思うような人間」になろうとする実践であるとも言い換えられます。これをリグルは「理想(ideals)」と呼びます。つまり、スタイルとは個性ではなく、理想の表現なのです。
スタイルと個性の関係
それでは、スタイルと個性にはどのような関係があるのでしょうか。というのも、スタイルが個性ではなく、理想の表現であることがわかったところで、やはり、そこには何らかの仕方で、その人の個性が関わっていると考えられるからです。
リグルが言うには、まず第一に、個性は理想の特徴づけとなります。理想というのはある意味で「最良の自分」にようなものです。ここには、理想の元となるその人のパーソナリティーが少なからず含まれているのです。
次に、個性はその人が持つことの出来る理想の種類や数を制限します。人によっては、ある理想を望みことが、どうしても心理学的に不可能な場合もあるのです。その人の理想とは、その人の生まれ持った気質や生理的特徴、動機づけの傾向などを考慮したものでなければならないのです。
以上のように、理想と個性の間には強い繋がりがあります。
ゲームにおけるスタイル
リグルはさらに細かく自らのスタイル概念を洗練させていきますが、今回は彼の議論を追うのはここまでにしておきます。代わりに、筆者の研究対象であるゲームとスタイルの関係について少しだけ触れておきましょう。
筆者は以前の論文(『個人的なものとしてのゲームのプレイ : 卓越的プレイ、プレイスタイル、自己実現としての遊び』)において、リグルのパーソナルスタイルの定式化を用いて、「プレイスタイル」という概念を特徴づけました。
ですが、プレイスタイルに派生しない方向性にも、リグルによるスタイルの定式化がゲームというものの理解に役立つと思っています。それは、リグルの定式化が捉えている、「スタイルを持つことによってその人のパーソナリティーとはかけ離れた性質を体現できる」という点です。
例えば、ゲームにおいては、他者に対して攻撃的であることがしばしば求められますが、プレイヤーの元の人格が心優しいものであっても、ゲームにおいてはそれとは正反対の行動を取ることができる、ということがよくあります。リグルによるスタイルはこの点をよく捉えることができるのです。
私がゲームに特徴的だと思う性質として(C・ティ・グエンも似たようなことを言っていますが)、ゲームでは日常とはかけ離れた動機づけや、心理的特徴のもとで行為することができる、というものがあります。つまり(少なくとも一部の)ゲームでは、スタイルを持つことに類比したことが、プレイのある種の前提的条件として捉えられる可能性があるのです。私がプレイスタイルに着目したのもこの点にあり、スタイルとを持つことと、ゲームをプレイすることの間には、何かしらの密接な関わりがあるようにも思えるのです。
参考文献
- Riggle, Nick. 2015. Personal Style and Artistic Style. Philosophical Quarterly 65 (261), 711-731.
- Wollheim, R. 1979. “Pictorial Style: Two Views.” in B. Lang (ed.) The Concept of Style, 183–202. Ithaca and London: Cornell University Press.——. 1990. Painting as an Art. Princeton: Bolingen.
美学者とは
美学者の役割
- 【美的判断】なぜある人が「美しい」と感じる対象を、別の人は「そうでもない」と思うのか
- 【芸術作品の価値】作品が私たちの感性に与える影響を、どう評価し、言葉で説明できるか
- 【日常の美】ファッションやインテリアなど身近なところに潜む「美しさ」をどのように考えるか
こうした問いに取り組むのが美学者の役割です。近年では、ゲームの体験やデザイン、スポーツや身体表現、さらにはSNSなど、従来は「美学」とはあまり結びつかなかった分野にまでその探究範囲が広がっています。哲学や芸術学と深く関係しながら、現代社会のあらゆる「感性の問題」に光を当てるのが、美学者と呼ばれる人々なのです。
【PROFILE】
北海道帯広市出身。早稲田大学文学研究科博士後期課程在籍。専門は、ゲーム研究、美学。主な論文に、「個人的なものとしてのゲームのプレイ: 卓越的プレイ、プレイスタイル、自己実現としての遊び」『REPLAYING JAPAN 6』、「ゲームにおける自由について──行為の創造者としてのプレイヤー──」『早稲田大学大学院 文学研究科紀要 第68輯』。ゲームとファッションとタコライスが好き。