【連載】美学者 上野悠の「美学でひもとく世界」
能力を哲学する?

「能力(ability)」とはなんでしょうか。ゲームの文脈で言うと、プレイヤーが操作するキャラクターが固有に持っている「スキル」や「アビリティ」といったものを想起してしまいそうですが、ここで言う能力とは、我々は人間が持っている、なにかを行うための力のことです。
この場合の能力も、ゲームと無縁ではありません。多くのゲームはわれわれが持つ能力──筋力や敏捷性、忍耐強さや推論能力などなど──を試したり、鍛えたりするものだからです。これは例えばの話ですが、もしかしたら、ゲームに特有の能力を特定することで(そんなものがあればですが)、ゲームというものについてさらに理解が深まるかもしれません。
というわけで、今回は能力の哲学について紹介するのですが、「能力とは何か」なんて自明のことでしょ、と考える人も少なくないでしょう。しかし、この問いに答えようとすると、意外にもかなりの難問なのです。

今回紹介するのは、論文ではなく、web上で公開されている、スタンフォード哲学事典(Stanford Encyclopedia of Philosophy: SEP)の「能力(abilities)」の欄(https://plato.stanford.edu/entries/abilities/)です。SEPは、様々な哲学的トピックについて、その歴史的な展開も踏まえて解説してくれているので、その問題に関心を持った人が最初に手を出すにはとてもおすすめなのですが、今回の能力についての欄は(SEPあるあるなのですが)結構な分量なので、一部をかいつまんでご紹介いたします。このトピックはJohn MaierとSophie Kikkertという研究者たちによって執筆されています。
「能力」の欄は3つの部分からなっており、第1部(第1章と第2章)は、能力について哲学的に議論するための枠組みの紹介、第2部(第3章と第4章)では、これまでの哲学的文献で提唱されてきた能力の理論を概観します。このうちの第3章では、最も広まっている理論、すなわち、能力を行為者の行為とその行為者が持つ意志との間の仮定的な関係として理解する理論について検討し、第4章では、このような仮定を伴わない理論について考察しています。第3部(第5章)では、能力の理論についての、2つの重要な応用について扱っています。今回は、このうち、第1部(第1章と第2章)と第3章に少し触れるまでをざっくり扱っていきたいと思います。
能力とその類似物を比較する

第1章では、能力とは何か、という問いに対してざっくりとした答えを提示しようするところからはじまります。まず検討するのは「傾向性(dispositions)」というものです。
傾向性とは、「壊れやすい」や「溶けやすい」といった述語、あるいは「あるものは打たれると壊れる傾向がある」や「あるものは水に入れると溶ける傾向がある」といった文によって表現されるような性質のことです。
傾向性と能力は、「あるものの、現れていなくても存在できるような特性である」という点で似ています。ガラスは壊れていなくても壊れやすいのと同じように、人は腕を上げていなくても腕を上げる能力を持っているのです。

しかし、傾向性だけが、「あるものに内在する可能性」というもの般を網羅するわけではありません。傾向性に含まれないような物体に内在する可能性のなかには、例えば、「アフォーダンス」などが挙げられます。また、能力も挙げられるでしょう。そういうわけで、それらの上に、さらなるカテゴリを設けることにします。それが「力(power)」です。
この理解のもとで、能力は、力の一種であると見なされます。それでは、能力とはどのような力なのでしょうか。力が能力であるためには、追加で以下のような2つの条件を満たす必要があります。
- 能力は、行為者(agents)の性質であり、行為者ではないものの性質ではありません。物体は傾向や可能性を持っていますが、能力は持たないのです。
- 能力は、行為者と行為(actions)を結びつけます。行為者の持つ力の一種としてみなされるようなものでも、それが行為に結びつかないようなものであるならば、能力ではないのです。
能力の中の区別
ここまでは、能力と他の力との区別が主に扱われました。しかし、能力のなかにも区別が存在します。
一般的能力と限定的能力

第一に、一般的能力と限定的能力(General and specific ability)の区別です。この区別を確認するために、テニスの例が挙げられています(示唆的なことに、能力の哲学はスポーツの例が使われがちなようです)。
ボールとラケットを装備した熟練のテニス選手がサービスラインに立っていることを想定します。彼女とサーブの間には、何の障害もなく、サーブを行うためのすべての条件が満たされています。このような行為者はサーブする立場にあり、サーブを実際に選択肢として持っています。このような場合、行為者は、サーブをするという「限定的能力」を持っているのです。
一方で、ラケットとボールを持たず、かつテニスコートから何kmも離れた場所に立っている、同一のテニス選手を考えてみましょう。このような場合でも、行為者は、サーブを打つ能力を持っていると言えます。しかし、そのような行為者は、先ほどの意味での「サーブする能力」については欠如しているといえるでしょう。このようなエージェントは、サーブする「一般的能力」を持っているといえるのです。「いまその場でできる」のが限定的能力で、「いつもはできる(いまその場ではできないとしても)」のが一般的能力という感じでしょうか。
こうした区別はなにゆえ必要なのでしょう。著者たちは、一般的能力と限定的能力とが取りうる関係性について指摘しています。ある理論によると、一般的能力は限定的能力よりも何らかの意味で先行しています。限定的能力を持つことは、単に一般的能力を持ち、その上で機会などの追加の制約を満たすことだという考えです。しかし別の理論では、限定的能力が一般的能力よりも何らかの意味で先行しているとされます。それによると、一般的能力を持つことは、限定的能力を特定の状況下で持つことに他ならないのです。このように、「一般/限定」の区別はどちらが先行するかによって見解が分かれ、それによって異なる「能力」観を照らし出すのです。
グローバルな能力とローカルな能力

次に取り上げられるのは、「グローバルな能力」と「ローカルな能力」の区別です。これは上記の区別と似ていますが、「一般的能力」とは、行為者が現在の状況下でそれらを行使できない場合でも、その行為者が持つことができる能力でした。他方、能力は「グローバル」な意味でも捉えられます。これは、能力が幅広い可能な状況において行使可能であるという意味です。一方、ローカルな能力は、限られた状況においてのみ行使可能です。
グローバルとローカルな能力の区別は二元的(きっぱりと分かれる)なのではなく、スペクトラムを示すものであると考えられます、一般的な能力は、よりグローバル(=広範)であるか、よりローカル(=局所的)であるかで程度が異なる可能性があるのです。この点を明確にするため、テニス選手の例に戻りましょう。あるテニス選手はサーブを打つ一般的な能力を持っています。仮に、その選手がテニスをするのに特に適した条件下(例えば、風が少ない・整備されたコート・邪魔がない)でしかサーブを打てないとします。このとき、行為者は「ローカルな能力」を持っていることになります。このような、行為者が能力を発揮できる(狭い)条件は、その能力を限定的能力にするわけではありません。というのも、極端に言えば、何かが限定的能力となるためには、指定された条件が実際に存在する必要はないからです。
単純な能力と意図的な能力

もう一つ、より基本的な区別として、単純な能力と意図的な能力(simple and intentional)の区別があります。これに関しては、例えば、サイコロで6を出したエージェントは、単純な意味で「サイコロで6を出すという」能力を有していたと言えます。しかし、エージェントが関連する意味で何らかのコントロールを有していることを要求する別の意味での「能力」概念もあるのです。このよりコントロールされた意味での能力は、意図的な能力と呼ばれます。
意図的な能力を持つために、パフォーマンスに対するどの程度の制御が必要かは議論の的となっています。先ほどの分類の場合と同様、単純な能力と意図的な能力の概念は、厳格な二分ではなく、グラデーションであるかもしれません。行為のパフォーマンスに対する制御の程度が異なる可能性がこれに依拠しています。
狭義の能力と広義の能力

ヴィフヴェリン(2013)が提唱する第三の区別は、狭義の能力と広義の能力(narrow and wide)の区別です。狭義の能力は、行為者がその内部構成によって持つ能力です。したがって、同じ物理法則のもとでの2人の同一人物は、同じ狭義の能力を持っています。一方で、広義の能力は、エージェントが内部構成と環境の組み合わせによって持つ能力です。
一見すると、狭義と広義の区別は、一般能力と特定能力の区別と一致するように思えます。いずれの場合も、あるタイプの能力は、行為者がその能力を行使する機会がある場合にのみ保有されます。しかし、ある時点である行為を行う狭義の能力を欠く行為者が、それでもその行為を行う一般的能力を保有する可能性があるのです。そのような行為者は、他のほとんどの時点において、その行為を行う狭義の能力を一般的な意味においては保有しているということになります。このように、能力の中にさまざまな区別を設けることは、能力それ自体だけでなく、他の関連するトピックについて考えるときも有用であると著者たちは指摘しています。
条件分析

冒頭で、第3章では、最も広まっている理論、すなわち、能力を行為者の行為とその行為者が持つ意志との間の仮定的な関係として理解する理論について検討するとしていましたが、そうした能力の仮定的理論で最も著名なのは「条件分析」と呼ばれるものです。ここからは、この方法についてざっくり見ていきましょう。
能力の条件分析は、Aならば(→)Bという論理式のような形式をとります。Aにはある人に特定の能力があることを示す文が入り、Bにはそのことを説明するような文が入ります。このBの方をどうするのか、が肝なわけですね。そして、これが必要十分条件となること、つまり、矢印が逆でも成り立つような関係を目指すのです。
そして、そのBの部分である「条件文」は次のような形式を持ちます。「S(ある人)はA(何らかの行為)するだろう、もしSが特定の意志を有する場合」
以上のように考えると、まずはこのような条件分析が得られます。
SがAする能力を持つとは、SがAを試みればAするだろうというときであり、その時に限る。(S has the ability to A iff S would A if S tried to A.)
もしこの式(CA)が真であれば、それは能力の理論を構成するものであ、能力という概念自体に言及することなく、ある行為者が特定の行為を行う能力を持つ条件を正確に定義するものとなるのです。
しかしながら、このような条件分析は、かなりの批判を受けてきました。ですが、能力の記述として、最初の印象では非常に適切に見える点は重要です。
実際に典型的な行為者を想定してみると、その行為者が(CA)の条件文の中にあるような状況で、できたりできなかったりすることは、だいたいわれわれが能力と呼んでいるものと合致するわけです。このように、(CA)は、われわれの直観にだいたい沿っているために、これを否定するために相応の理由が必要になるのです。
条件分析への批判

では、(CA)はどのように批判されるのでしょうか。キース・レーラー(Keith Lehrer)という人がその一例として、(CA)に対する批判を提示しています。
心理的問題の存在
レーラーが提示する事例とは、次のようなものです。キャンディの入ったボウルを渡され、その中に小さな赤い飴玉が入っていると仮定します。しかし、赤い飴玉に対する病的な嫌悪感のため、赤い飴玉を選ぶことを選択しなかった、という事例です。論理的に考えるならば、もし私が赤い砂糖の玉をとることを選択していたなら、私はそれをとっていた──つまり、そうしようとすればそうできた──わけなので、赤い飴玉をとる能力を持っていたということになりますが、現にそう選択しなかったため、赤い飴玉に触れることが全くできないとすることもできるわけです。ここに矛盾が生じてしまいます。

このような例は、以下のような単純な点に依拠しています。つまり、心理的な問題は、外部的な障害と同様に、能力を損なう可能性があるということです。(CA)は外的な障害によって、できるはずのことができないことは認めますが、「SがAを試みればAするだろう」ということ、つまりは「意志」の概念に強く依拠している理論であるため、この点を認められず、そのような心理的問題が関連する反例の余地ができるわけです。こうした反例は(CA)の「十分要件」、つまり、「SがAを試みれば~」が、SがAする能力を持つことの十分条件として存在することへの反例となります。
これに対し、「心理的」能力と「非心理的」能力を区別し、(CA)が後者を適切に説明すると主張することができるとすることもできますが、研究者たちが理論化しようとしている能力の一般的な概念は、心理的要件と非心理的要件の両方を包含しているように見えます。もしそうであるならば、レーラーが提示する例は有効な反例として成立するのです。
能力を持つ人の失敗
一方で、次のような反例もあります。腕の良いゴルファーが簡単なパットを外す場合を考えてみましょう。このゴルファーがパットを試み失敗した以上、彼女が試みた場合、パットに成功しただろうという主張は偽となります。彼女はパットを試みましたが、成功しなかったからです。しかし、よいゴルファーとして、彼女はパットを決める能力を十分に持っていたと仮定できます。したがって、これは能力が関連する条件──SがAを試みればAするだろう──を満たさなくても存在し得るケースであり、したがって(CA)の「必要要件」に対する反例となります。

しかし、ここで(CA)の擁護者は、限定的能力と一般的能力の区別を利用することができます。(CA)は、限定的能力とは何か、つまり、実際にその行動を行うことができる状態にあることを説明するものであるのだ、とすることができるわけです。この場合、ゴルファーは限定的能力を欠いていることは(CA)によって正しく導き出されますが、ゴルファーがこのようなパットを沈める一般的能力を持っていることは依然として真実であることになります。しかしながら、仮にこの応答が一定の妥当性を持っていたとしても(その妥当性は限定的/一般的の区別の妥当性に依存します)、(CA)の十分条件に対する異議は依然として残ります。
能力の哲学の展開

このあと、条件分析を上記の課題にこたえられるように、より洗練したものにするアプローチや、むしろ伝統的な条件分析を捨て去って、別の論理形式に依拠した理論に乗り換える方策などが紹介されますが、そこからはかなりテクニカルで難しい話になるので、今回はここまでの紹介にさせていただきます。
冒頭で少し触れましたが、本記事の背景にあるちょっとしたモチベーションとして、能力の哲学がゲーム美学に応用できるのではないか、というものがあります。実際、ここで挙げられていた例にはスポーツを用いたものが少なからず含まれており、能力の哲学はまさにそうした事例を想定して議論されているような気がしました。
管見の範囲内ですが、能力の哲学が、日本で本格的に議論されているのはあまり見たことがありません。行為論や行為の哲学のなかで触れられることはあるのかなという気はしますが、今後は能力の哲学をもっと深掘りしていきたいところですね。
美学者とは
美学者の役割
- 【美的判断】なぜある人が「美しい」と感じる対象を、別の人は「そうでもない」と思うのか
- 【芸術作品の価値】作品が私たちの感性に与える影響を、どう評価し、言葉で説明できるか
- 【日常の美】ファッションやインテリアなど身近なところに潜む「美しさ」をどのように考えるか
こうした問いに取り組むのが美学者の役割です。近年では、ゲームの体験やデザイン、スポーツや身体表現、さらにはSNSなど、従来は「美学」とはあまり結びつかなかった分野にまでその探究範囲が広がっています。哲学や芸術学と深く関係しながら、現代社会のあらゆる「感性の問題」に光を当てるのが、美学者と呼ばれる人々なのです。

【PROFILE】
北海道帯広市出身。早稲田大学文学研究科博士後期課程在籍。専門は、ゲーム研究、美学。主な論文に、「個人的なものとしてのゲームのプレイ: 卓越的プレイ、プレイスタイル、自己実現としての遊び」『REPLAYING JAPAN 6』、「ゲームにおける自由について──行為の創造者としてのプレイヤー──」『早稲田大学大学院 文学研究科紀要 第68輯』。ゲームとファッションとタコライスが好き。























