【連載】美学者 上野悠の「美学でひもとく世界」
「過程」の芸術
みなさんが「芸術」と聞いて頭に思い浮かぶのはどのようなものでしょうか。大抵の場合はまず、絵画や彫刻といった、美術館に飾られているような典型的な作品が出てくるでしょう。その次に出てくるのは、音楽や演劇といった上演芸術でしょうか。それから、詩や小説といった文学、はたまた、近代以降に登場した、映画という比較的新しい芸術形式を挙げる人もいるかもしれません。
こういった芸術作品は形式やその「あり方」こそバラつきがあれども、どれも「モノ」としての地位を持っているという共通点があります。絵画や彫刻が「モノ」であるのはよいとして、音楽や演劇が「モノ」であるというのはあまりピンとこない人がいるかもしれませんが、われわれはこうした芸術作品を鑑賞するとき、鑑賞の「対象」として扱うでしょう。そういった意味では、音楽や演劇も「モノ」であるのです。
というふうに考えてみると、われわれがふだん「芸術」としてとらえているものは、すべて「モノ」であるものです。こうした「モノ」たちを、われわれは目や耳をつかって認識し、それらのもつ独特の「よさ」を味わっているわけです。
しかし、われわれの美的文化は今までずっと、そうした「モノ」中心の見方をされてきており、別の「在り方」をしているような芸術は相対的に軽視されてきていると主張している研究者がいます。この連載で何度か取り上げてきたC・ティ・グエンです。グエンはゲーム哲学の研究者としておなじみですが、そのゲーム哲学をさらに広く展開しようと試みています。彼はゲームだけでなく、社交ダンスや料理、町ブラなどを含めた新しい芸術カテゴリを提案しています。その名も「プロセスアート」です。
これまでの芸術文化は「オブジェクト」中心だった

グエンによると、これまでの芸術文化や、それに影響を受けている私たちの美的文化は「モノ」または「対象」が中心的でした。
芸術とは、美的な理由から芸術作品を制作する実践のことであり、芸術家は芸術作品と呼ばれる人工物を作り、それに特定の美的性質を吹き込みます。そこへ、「観客」がやってきて、その人工物を鑑賞し、作品に生じている美的性質を評価するのです。グエン曰く、芸術作品は、美的性質の担い手として機能することで、芸術家と観客のあいだの「橋渡し」として機能するのです。これが、グエンが素描する「モノ」の芸術の一般的なシナリオです。グエンはこうした従来型の「モノ」としての芸術のあり方を「オブジェクトアート」と呼びます。
オブジェクトアートとプロセスアート
しかしグエンは、芸術にはもうひとつ、まったく異なる仕組みがあるのだと主張します。それこそが「プロセスアート」です。プロセスアートでも、作り手は人工物を作りますが、その人工物は、さらなる活動のための「プロンプト」(何かを促進するもの)となるよう意図されているのです。そこへ、参加者がやってきて、その人工物に関わり、その人工物によって部分的に「輪郭」が決定されるような活動へと駆り立てられます。そしてその参加者たちは、自分たちの行為に生じる美的性質を評価するのです。このシナリオは、オブジェクトのものとは大きく異なります。
第一に、美的性質が現れる場所において異なります。オブジェクトアートでは、芸術家は芸術品そのものに美的性質を吹き込みます。一方で、プロセスアートでは、芸術家は、意図された美的性質が行為そのものに現れる、いわば「美的な行為」を喚起するために、特殊な人工物を創り出すのです。

注意すべきは、グエンはこうした「行為の芸術」(=プロセスアート)と「物の芸術」(=オブジェクトアート)の区別は、演奏やダンスなどといった、いわゆる「パフォーミングアーツ」と、絵画や彫刻などの「物体」的な人工物との区別とは全く異なるという点です。冒頭でも挙げたように、舞台やダンスなども「物の芸術」のうちに入ります。こうした芸術は鑑賞者の「外」にあり、その鑑賞の焦点も、その「モノ」自体です。一方で、行為の芸術は、「はっきりと自己反省的な美的鑑賞によって特徴づけられる」と述べられており、こうした芸術においては、鑑賞者の美的注意の焦点は、自分自身の行為の美的性質にあるのです。
もちろん、外側からも内側からも美的に評価できるような「行為の芸術」もあります。ダンスの美しい動きは、内側からの「運動の感覚」と外側からの視覚の両方で認識することができることがあります。しかしながら、そのダンスの中のある側面は、それを実際に行っている人にしか経験できないものです。その経験とは、すなわち、選択すること、決定すること、行動を起こすこと、変化する環境に対応すること、というような主観的な経験です。
グエンはプロセスアートとは、「精神的・身体的プロセスの一人称的な美的経験をもたらすために作品が作られるというアート実践」として特徴づけます。オブジェクトアートでは、芸術作品は、それが(例えば)「優美」であることをもって善とされるますが、プロセスアートでは、優美なのは「私」であり、作品のよさは、それが私を優美にするように、誘導したり促進したりして、「私の」優美さを形作るのを助けてくれることにおいてのものなのです。
グエンは、オブジェクトアートが西洋の伝統的で高尚な芸術文化において支配的な形式である一方で、プロセスアートはこれまで軽視されてきたと主張しています。また、グエンは、最近の「日常美学」の興隆によって、一人称的な「行為」の美的な側面に焦点を当てた「プロセス美学」についての考察が深まってきているという流れがあるにもかかわらず、哲学者たちは「プロセスアート」の可能性についてはほとんど無視しているということを指摘しています。

そしてそのことは、ビデオゲームにおいてもそうであると述べています。芸術形式としてのビデオゲームに関する学術的な議論は、一般的に、固定されたストーリー、グラフィック、音楽といった対象的な性質に焦点を当て、プレイヤーの選択や熟練したプレイヤーの行動といった美的性質を無視してきたと言うのです。このようなオブジェクトを既成の言説用語で読みやすくするために、従来の美学理論はそのプロセスにおける美的特質をほとんど無視してきたのである。
グエンはこうしたプロセスアートの可能性の無視の背後にある考えとして、日常美学の代表者である斎藤百合子による意見を引用しています。かいつまんでいうと、あるものが芸術であるためには、それについての意見を交わしあうためにも、ある程度それについての経験が共有できなければなりませんが、行為のような主観的経験ではそれが行えないのです。
しかしグエンは、そうした考えに反論します。ここが私の説明と大きく異なる点である。グエンは、プロセスアートにおいて、一人称的経験を喚起するために用いられる人工物は、ある種の行為経験を安定させ、より主観的に共有できるものにするのに役立つのだと主張します。それにより、行為の美学は、単に日常的な活動に限定されるものではなく、芸術的実践を通じて意図的に呼び起こされ、造形されうるものとなりうるのです。
プロセスアートにまつわる問題
さて、プロセスアートに対する歴史的な不注意によって、多くの重要な疑問が未解決のままとなっています。それは例えば、プロセスアートにおけるアーティストとは誰なのか?という疑問や、または、どのようにして、作品に、美的性質を形成する能力を吹き込むのか?という疑問、さらには、行為の美的特質に責任を持つのは誰なのか?(アーティストなのか、それとも能動的な観客なのか?)といった疑問です。論文では、グエンはプロセスアートの理論を提示し、これらの問いに答えることを試みます。
プロセスアートの代表例

詳細な哲学的な理論を展開する前に、グエンは代表的なプロセスアートを調査していきます。
最初にあげられるのが、ゲームです。ここで言われている「ゲーム」とは、ビデオゲームはもちろん、ボードゲームやスポーツ、競技なども含まれるような、広い意味での「ゲーム」です。ゲームはプロセスアートの明確な例であり、例えば、アバターを操作して難しいジャンプを慎重にタイミングよく繰り返したり、複雑な連続技を考え抜いたり、複雑な反応動作を優美かつ正確にこなしたりするような経験は、行為の芸術と言えるでしょう。
もちろん、多くのゲームにも、例えばグラフィックの美しさというような、伝統的な対象美学的特質がありますが、たいていのゲームデザインの労力は、プレイヤーの能動的なプレイ経験を形成するために費やされています。しかしながら、グエンは、ビデオゲームの美学的議論はこれまで、ゲームのメカニクス(≒ルール)や、ストーリーなどといった対象としての側面にばかり着目し、プロセスアートとしてのゲームあはあまり精査されてきたいなかったと指摘しています。これは重大な欠落であり、オブジェクトアートに適した理論的枠組みにゲームを押し込めようとする試みによるものであると、グエンは批判します。
グエンは、都市計画もまた、少なくとも部分的にはプロセスアートであると主張します。グエンは「同じようなことの繰り返しに満ちた、ある種の近代的なアメリカ大都市を探索する経験」と、「イスタンブールのような、曲がりくねった素敵な通りや、路地裏や市場の楽しい迷路に満ちた都市をナビゲートする豊かで生き生きとした経験」を対比させています。後者のような街を歩く際の楽しみのいくつかは、建築物や街路の視覚的な質といった対象美学的特質から生じるものですが、イスタンブールの通りを一日歩き回るということは、ある種の興味深い質をもつような、探索の選択にの数々に満ちたものなのです。例えば、隠れた通路に気づいて発見することや、広くてカーブの多い道を行くか、代わりに屋内市場の暗い迷宮に入るかを選択することといった一人称的経験の質を、街のレイアウトが左右しているのです。

また、グエンは「ソーシャル・タンゴ」と呼ばれる、社交ダンスの実践の一種にも言及しています。そのなかで、「コンタクト・インプロヴィゼーション」と呼ばれる練習は、外見的な見せ方よりも、ダンサーの内面的な経験に主眼を置いた練習です。そのため、コンタクトを始めたばかりのダンサーはしばしば華やかなパフォーマンスを創り上げるが、経験豊富なコンタクトダンサーのそれは見ていてちょっと退屈なものになるそうです。というのも、経験豊かなダンサーは、内なる感覚や踊りながら感じられるような相手との関係性のために踊っているのであって、外側の観察者のために踊っているのではないからです。実際に、コンタクト・インプロヴィゼーションのコミュニティは、従来のパフォーマー/観客という区分けからはなれ、オープンな練習の場を開催したり、観客が自由に参加できるようなステージを好んでいる傾向にあるそうです。これには、オリンピックで話題になったストリートダンスや、スケートボードにも似たようなところがあるのではないでしょうか。
注意点として、これらの実践は、プロセスアート的な側面を強く持つものとして挙げられており、論文では、説明のためにわかりやすく「対象芸術的」あるいは「過程芸術的」な例が挙げられていますが、グエンは、実際の芸術活動は、この2つの形式のハイブリッドに満ちていることを指摘しています。グエンが論文において強く主張したいこととは、あくまで、オブジェクトアートに比して、プロセスアートが相対的に軽視されてきたということと、そのことによって、われわれが重要な美的生活の一側面を見落としてしまっていることへの警鐘なのです。
プロセスアートにおける「アーティスト」とはだれなのか

グエンはまず、プロセスアートのアーティストとは誰なのか、という問いに取り組みます。まず考えられるのは「行為者」のほうであるという考えです。ゲームや都市の「デザイナー」は、芸術性のための背景や道具を作っているのであり、むしろ、プレイヤーや散歩者が「アーティスト」なのであるという考えです。
これは、いくつかのケースでは適切であるとグエンは言います。例えば、ソーシャル・タンゴにはおいて、ダンスに現れる美的性質の主な責任はダンサー自身にあるよう思われます。こうした社会的実践の設計者たちは、美的創造のための肥沃な土壌を作る責任はあっても、美的創造そのものに責任はありません。そのようなデザイナーをオブジェクトアートにおける芸術家の類縁者と考えるのはあまり適切ではないように思えます。
しかし、「行為者がアーティストである」という考え方は、他のケース──例えば、多くのボードゲームやビデオゲームにおいて──は不適切であるように思われます。興味深いのは、グエンはこのことを、「ビデオゲームのデザイナーとワープロソフトのデザイナーの美的責任の違いをあらわすことができない」ということに着目して示そうとすることです。
ワープロを設計するチームは、芸術家(主に小説家や詩人など)がさまざまな作品を書くためのツールを作っています。しかし、「ワープロ」という作品のアーティストではありません。彼らはソフトウェアを設計する際に、特定の芸術的価値や美的資質のようなものを念頭に置いているわけではないし、芸術的創造に積極的に参加しているわけでもないのです。

ロッククライミングのルート設計者と、そのルートを登るクライマーに現れる美的性質との間の関係性は、それとはまったく異なる種類のものです。ルート設計者は優雅な動きを誘発することを目的とすることもできるし、クライマーの繊細さな動きを引き出すためにホールドの大きさや難易度を設定することもできます。そのように、多くの場合、プロセスアートのアーティストは特定の芸術的な性質や価値観を念頭に置いており、自分の作品に、たとえ設計者がその美的性質を完全に決定していないとしても、行為者の活動の美的性質を形成する上で何らかの直接的な役割を果たす特徴を吹き込むことになるのです。
一方で、マイクロソフトのWordの設計者は、それを使ってどのような美的性質が現れるかについては何も考えていません。くらべて、クライミングのルート設計者は、優雅で、繊細で、美的に楽しい動きを促すために、クライミングのルートを設計することができます。
共同制作者説
ここでグエンは、Sondra BacharachとDeborah Tollefsenによる、共同制作についての理論を参照します。BacharachとTollefsenの考えとはざっくり言うと、例えば映画において、監督、脚本家、撮影監督、俳優、舞台衣装係は明らかにアーティストの一員だが、撮影現場の配膳係はそうではない、という線引きについて答えるものです。
BacharachとTollefsenによると、作品の共同制作者とは、「作品の中に特定の美的特質を共同作業で定着させるという共同コミットメントをメンバーが担うことによって構成される」のです。彼らは意図的に協力して、映画を洗練されたものにしたり、不気味なものにしたりすることができます。一方で、ケータリングのタコスは監督の芸術的選択の一助になるかもしれませんが、タコスを作った人は映画の特定の美的性質を意図的に固定する役割を担ってはいないのです。

グエンは、この分析をプロセスアートのアーティストが誰あるかを特定するのに適用しようとします。これにより、Wordの設計者たちは、作品の制作において共同作業をしているわけではないということを線引きできるのです。Wordは小説家の芸術的な創作活動を容易にすることで、その作品の品質に貢献したかもしれませんが、作品の持つ美的性質は、Wordのデザインチームの選択によって説明されることはないのです。
一方で、ビデオゲーム作品の『Portal』のような例においては、与えられた課題に取り組み、解決手段をあみだすのはプレイヤーですが、プレイヤーの活動の美的性質は、部分的にはゲーム内のデザインされたゲーム内の要素とゲームデザイナーの意図的な努力に起因しています。このような場合を鑑みると、私たちはプロセスアートの作品の制作者と行為者は、芸術的な共同制作者なのである、と結論づけたくなります。
しかし、グエンは慎重に、これは特定のケースにおいては正しいかもしれないが、プロセスアートにおけるアーティストと行為者の関係を、伝統的なオブジェクトアートの共同制作に見られるような種類の関係に、そう簡単に還元するべきではないとのではないかと指摘しています。それには以下のような理由があります。
第一に、もしプロセスアートが一種の共同制作であるとすれば、それは伝統的な芸術的共同制作とはまったく異なる種類のものとなります。映画の脚本家は脚本を作成し、それを制作チームに渡します。制作チームはその脚本に触発され、さらなる制作を行います。
これはプロセスアートと同じようにおもえるかもしれませんが、映画制作においては、脚本家と政策チームはともに、最終段階の成果物である映画に美的性質を持たせ、観客に鑑賞してもらうことを目指しており、ここでの第一の美的性質は、完成した作品そのものにあります。脚本家は、制作チームの創作活動がもつ美的性質を構造化し、影響を与えることに重点を置いているわけではありません。一方で、ゲームデザイナーは、プレイヤーの「プレイ」という行為の美的性質のためにデザインしているのです。

第二に、芸術的共同制作は通常、両者が共通の目標、つまり特定の美的性質を備えた美的対象の制作を目指すものです。しかし、ゲームにおけるデザイナーとプレイヤーの目標は、まったく異なることがあります。例えば「Portal」のデザイナーは、プレイヤーの経験に特定の美的性質を吹き込むためにデザインしているかもしれませんが、プレイヤー自身はプレイ中、「クリアすること」だけを目的としている可能性が高いのです。
場合によっては、プレイヤーは当初、美的経験をするためにゲームをプレイすることを決定しているかもしれませんが、ゲームプレイ中は、特定の美的性質を生み出すために特定の行動を選択しているわけではなく、むしろ、そうした美的性質は、ゲームメカニクスによってもたらされる、完全に「道具的」な意図や行為から生じるのです。これはグエンがゲームの哲学の論でも言っていたことですね。
美的創造に基づく芸術家概念の拡張
では、あるプロセスアートの作品において、アーティストとはいったい誰になるのでしょうか。グエンは、ここで、ニック・ザングウィルによる「美的創造」についての説明を検討します。
ザングウィルによれば、芸術家とは、「美的洞察──ある美的性質がある非美的性質に依存しているという洞察力──を持ち、その非美的性質によって芸術作品に美的性質を付与する人」のことです。例えば、ある画家が、ある色と形を並べれば、絵画に味わい深い緊張感が生まれるという洞察を得たとします。そして、その洞察に基づいて、その色と形の配列で絵を描き、味わい深い緊張感を与えるのです。

しかし、この定義では、プロセスアートのデザイナーは除外されます。なぜなら、彼らは作品自体に美的性質を吹き込むわけではないからです。そこでグエンは、ザングウィルの論を以下のように拡張することを提案します。
プロセスアートにおけるアーティストの3種類の在り方
グエンは上記のように、ザングウィルの芸術家概念をプロセスアートを含みうるように拡張したうえで、3つの分類法を提案します。
行為者-プロセスアート:行為者が主要な美的洞察を持つプロセスアート。
ハイブリッド-プロセスアート:デザイナーと行為者が主要な美的洞察を共有するプロセスアート(共同もしくは入れ子構造を通じて)。
この分類法のもとで言うと、『Portal』ははデザイナー-プロセスアートです。デザイナーは、行為者の活動にある種の美的性質を与えるために、ゲーム内物理やゲーム内環境を特定の方法で創造する洞察を持って設計したのです。一方で、ソーシャル・タンゴは、行為者-プロセスアートであり、美的洞察の重みは、行為者が担っています。

ハイブリッドに関してはTRPGを例に出すのがわかりやすいでしょう。において、プレイヤーは、上演された物語という意味ではオブジェクトアートを創作していることになりますが、創作のプロセスそのものを美的にするようなTRPGのルール・セットの中でそれを行っています。
そして、マイクロソフトのWordはプロセスアートにはなりません。Wordの設計者は、Wordを使って書かれる様々な小説、戯曲、エッセイ、論文などに特定の美的性質をもたらすことを意図して、Wordを設計したわけではないからです。
後編へ
今回は、C・ティ・グエンによる「プロセスアート」という芸術形式の枠組みの提示と、それにまつわる哲学的な問題──プロセスアートにおいて制作者とはだれなのか──への解答を見ていきました。次回は、今回紹介した論文の続きとして、プロセスアートにおける鑑賞のフレーミングの問題や、プロセスアートそのものに対する想定されうる懐疑論への応答などについて紹介いたします。
参考文献
Nguyen, C. Thi. 2020. “The arts of action.” Philosophers’ Imprint 20 (14):1-27.
美学者とは
美学者の役割
- 【美的判断】なぜある人が「美しい」と感じる対象を、別の人は「そうでもない」と思うのか
- 【芸術作品の価値】作品が私たちの感性に与える影響を、どう評価し、言葉で説明できるか
- 【日常の美】ファッションやインテリアなど身近なところに潜む「美しさ」をどのように考えるか
こうした問いに取り組むのが美学者の役割です。近年では、ゲームの体験やデザイン、スポーツや身体表現、さらにはSNSなど、従来は「美学」とはあまり結びつかなかった分野にまでその探究範囲が広がっています。哲学や芸術学と深く関係しながら、現代社会のあらゆる「感性の問題」に光を当てるのが、美学者と呼ばれる人々なのです。

【PROFILE】
北海道帯広市出身。早稲田大学文学研究科博士後期課程在籍。専門は、ゲーム研究、美学。主な論文に、「個人的なものとしてのゲームのプレイ: 卓越的プレイ、プレイスタイル、自己実現としての遊び」『REPLAYING JAPAN 6』、「ゲームにおける自由について──行為の創造者としてのプレイヤー──」『早稲田大学大学院 文学研究科紀要 第68輯』。ゲームとファッションとタコライスが好き。



























