【連載】美学者 上野悠の「美学でひもとく世界」
美的経験と非美的経験のちがい

これまで、美学分野では「美的経験と非美的経験のちがいとはなにか?」という問いについて熱心に議論されてきました。というのも、この問いは「美的な〇〇」の特徴を考える、という美学のメイン目的にとって、まさにドンピシャの問いだからです。
こうした美学ど真ん中に問いに答えようとする研究は「狭義の美学」とも呼ばれます。反対に、絵画や音楽、ホラーやSFといった、芸術分野の各形式・ジャンルの個々の事例を取り扱うような美学を「広義の美学」と言います。私がふだんやっているゲームの美学的研究などは、まさにここに入ります。
話を戻しましょう。美的経験と非美的経験のちがいという問いは、つまるところ、美的経験の特徴づけの作業となります。この問題についてはさまざまに議論されてきましたが、最近の研究のなかで、美的経験の特徴をある種の相互作用であることとして考えようとしている、大変おもしろい試みがあります。気鋭の美学者、ベンス・ナナイによる研究です。
美的経験の相互作用説

まず、この問題に対する主要なアプローチとして、ナナイは、
- 区別自体を拒否する
- 知覚される性質や知覚的注意の性質など、知覚に関するなにかしらによって区別する
- 評価に関する違いによって区別する
の3つを挙げます。しかし、ナナイはこれらのどれとも異なる、「美的経験の特徴は、対象との相互作用に関係している」という見解を打ち出そうとします。
美的行為
ナナイはまず、「美的経験において我々は何をしているのか?」という問いをたてます。この問いについても想定できる3つの解答を挙げます。
一つ目の解答は、カント的な伝統的見解に基づいたものです。つまり、美的経験をするときには、わたしたちは「何もしていない」という見解です。というのは、結局のところ、美的経験の特別さは、「実践的領域」から切り離されているという点にこそあるからです。カントはこれを「無関心性」として特徴づけています。
二つ目の解答は、美的経験においては、わたしたちは「非意図的行為」を行っているという見解です。行為の哲学という分野では、意図的行為と非意図的行為が区別されます。

簡単に言うと、意図的行為とは何らかの「計画」の結果として意図的に行われる行為であり、これらは「先行する意図」によって引き起こされたり、動機づけられたりするような、わたしたちがしようとしてするような行為のことです。一方で、非意図的行為はそうありません。非意図的行為は依然として目標指向的な行為ではあるのですが、わたしたちが意図的に行おうとするものではなく、意図せずに実行されるのです。
例を挙げると、考え事をするときに部屋の中をうろついたり、人と話しながら手の甲をかいたりするのは、計画も先行意図も意図的努力も伴わず、ただそうしているだけ、という非意図的行為です。これにならって、例えばわたしたちは、映画をみるときに、画面上で視線を移動させたり、驚くべきことがあれば息をのんだりします。このような行為はすべて意図されてはいませんが、行為ではあります。つまり、芸術鑑賞中も非意図的行為を行っているのです。
美的経験には努力が伴う
しかし、ナナイは、これらの見解とも異なる、第三の見解を提示します。それは、私隊は作品に向き合っている最中、「美的行為(aesthetic actions)」を行っているのだとする主張です。
ナナイの提示する美的行為とは、美的経験において重要な役割を果たすような、意図的行為のことです。 美的行為について説明するために、ナナイはこれを「赤色の経験」と対比させます。わたしたちは、赤という色を体験するために、何かをしようと試みる必要はありません。目の前にある赤い塗料は、赤い色の体験を保証してくれます。対照的に、美的経験は保証されません。

ナナイは、この点において、美的経験は感情経験に似ていると言います。私たちは感情経験を持とうとする際に意図的な行為を頻繁に行っています。ちょっとピンとこないかもしれませんが、例えば、深い関係性を持っていた人の葬儀に参列しているのに、何らかの理由で十分に悲しく感じられない場合、より適切に悲しみを抱こうと試みる、ということは十分ありそうなことです。
つまり、赤という色の経験には何の努力も要しませんが、感情経験には往々にして多大な努力が伴うことがあり、美的経験にも同様に、往々にして多大な努力が伴うのだというのです。
対象に注意を向け続ける
美的経験には最低限、経験の対象へと注意を向け続けるという基本的な意図的行動が求められます。映画や絵画がどれほど没入感を誘うようなものであっても、わたしたちの注意はつい散漫になりがちです。そこで、対象との関わりを継続するためには、注意を再び対象へと引き戻す必要があり、これは立派な意図的行為なのです。
このことを説明するために、ナナイは逆に美的経験が失敗するような例を挙げます。お気に入りの曲を聴いているのに、何らかの要因でそれが全く響いてこないとき、わたしたちはただ諦めて音楽を止めたりはしません。わたしたちは必死に前に聞いた時に得たような気分になろうとし、美的体験を得るために努力するのです。
美的相互作用へ

ナナイは、美的行為について説明するために、二種類の行為の区別を持ち出します。それは、彼が「トロフィー行為」と「プロセス行為」と呼ぶものです。
まず、トロフィー行為についてです。ある種の行為は、終点や目標に到達して初めて意味を持ちます。例えば、新しいアパートへの引っ越し、大学入試の受験などが挙げられます。これらの課題は完了する必要があり、達成して初めて意味を持ちます。この種の行為がトロフィー行為です。
逆に、完結しなくとも意味を持つような、目標達成のために行われるものではないような行為があります。例えば、浜辺を散歩したり、興味深いものを読んだりすることなどです。これらはプロセス行為と呼ばれます。
では、美的行為はこの区別のどちらに属するのかというと、ナナイは、美的行為はトロフィー行為でもプロセス行為でもないと言っています。美的行為は特別な第三の行為形態なのです。美的行為においては、わたしたちは積極的に目標達成を目指している点では、プロセス行為とは大きく異なり、その目標が何であるか実際にはわからないという点で、トロフィー行為とは大きく異なります。

ナナイは、美的経験におけるわたしたちの行為は、トロフィー行動とプロセス行動の間を行き来する振動のようなものであると表現しています。ある種の経験を達成しようと懸命に努力することと、ただその過程を楽しむことの間を行き来するのです。美的行為はプロセス行為でもトロフィー行為でもなく、第三の、特別な種類の行為なのです。
また、ナナイは、美的行為が手段-目的構造においても特異なものであることを示します。目的指向的行為には、目的のために手段がある、通常の手段-目的構造と、手段のために目的が設定される、目的が手段を正当化する構造(これはC・ティ・グエンがゲームを特徴づける際に用いているものです)の二つがありますが、ナナイは、美的行為はこのうちのどちらでもないことを主張します。
まず、美的行為は手段と目的の構造を持ちません。というのも目標が美的関与の成否によって絶えず変化するため、固定された目標が存在しないからです。しかし同時に、目的が手段を正当化する構造でもありません。目的——美的体験の達成——はこのプロセスにおいて中心的な役割を担っているからです。
つまり、トロフィー的行為やプロセス的行為と同様に、美的関与における私たちの行為は、手段-目的構造と目的-手段構造の間を揺れ動くようなものであるとナナイは言います。美的関与の場合、私たちはまず目的を仮定的に設定し、次にその目的を達成する手段を選択します。そして、その手段の如何に基づいて目的を調整し、さらにその調整に基づいて手段を調整するのです。つまり美的行為とは、こうした往復運動が繰り返されており、鑑賞者と対象との相互作用としてみることができるのです。
美的行為が相互作用であることによって何が言えるのか

では、美的行為が相互作用であることによってどのような帰結が得られるのでしょうか。まず、わたしたちの経験のほとんどは双方向の相互作用ではありません。歯が痛むとき、そこにはほとんど相互作用はありません。したがって、歯の痛みを感じるのに意図的行為は必要ないのです。また、赤という色の経験においても同様です。赤い紙を目の前に置けば、私が赤を経験するのに特別な努力は不要でとなります。これらは一方向の経験なのです。
しかし美的経験は双方向の相互作用です。このことは、美的対象に近づこうと様々な方法を試み、時には失敗し、時には成功する、という美的実践の実態を説明してくれます。わたしたちは、美的対象に強く惹かれ、その引力に従おうとするのですが、必ずしもそれが成功するとは限らないのです。
そして、双方向の相互作用は私たちの生活において特別な役割を果たします。ダンスは双方向の相互作用であり、会話も友情、愛も同様です。美的経験は、少なくとも相互作用であるという点において、歯痛の体験や赤の体験よりも、ダンスや友情、愛に近いとナナイは考えています。ダンスでは、私たちはパートナーに合わせ、次に相手が私たちに合わせ、反応します。この一連の流れが無限に続いていくのです。美的経験もこれと同様のことが起きていると言えます。

しかしながら、厳密に言えば、美的相互作用は実際の相互作用ではありません。というのも、当然のことですが、相互作用の当事者の一方である、美的対象が何もしないからです。しかし、ナナイによると、それは「あたかも相互作用のようなもの」ではあるのです。美的経験をするとき、私たちは真の相互作用においてそうするのと同じように、対象と相互作用するのです。重要なのは、私たちは芸術作品との擬似的な相互作用を、本物の相互作用と同じように体験する点です。美的行為は本物の相互作用のように感じられるものなのです。
このように美的行為が本物の相互作用のように感じられるのは、芸術作品からの応答が不確実だからです。本物の相互作用においても、私たちは相互作用の対象となる物や人物が自らの行動にどう反応するか完全に把握することはできません。したがって何が起こるか確信を持てず、常に不確実性が伴います。そして、美的行為を特徴づけるような「あたかも」の相互作用についても同じことが言えます。私たちは、美的行為がどのような体験を生み出すかを完全に把握できておらず、ここでも同様の不確実性が存在するが、相互作用の相手側が何かを行うことはない。美的行為の成功は、本物の相互作用と同じように、その成功が完全にわたしたち次第というわけにはいかないのです。

また、ナナイは美的関与が私たちの自己意識にとって特別な重要性を持つことについても触れます。美的経験は私たち個人にとって重要なものとなることが語られていますが、美的行為の相互作用的性質は、その理由を理解する助けとなるのです。
双方向的な相互作用における絶え間ない行き来は、私たちが関与している対象や人物についてだけでなく、私たち自身についても多くのことを明らかにします。例えば、この相互作用が崩壊するような事例では、わたしたちは自らを責める傾向にあります。美的経験が実現しなかったのは、私たち自身の欠如ゆえであると考えるのです。そしてこうしたときには、美的経験を確実に起こすために、より一層努力する傾向が際立ちます。これは他者との関わり(ダンスであれ、友情であれ、愛であれ)がうまくいかない時に起こる現象と似通っているとナナイは指摘しています。
逆に、関わりがうまくいったときは、特別な絆が生まれることがあります。これはダンスや友情、愛に当てはまるように、美的関与にも当てはまります。友情や愛のような相互作用は、自己を定義する上で重要な役割を果たすのであり、美的関与が個人にとって重要な理由の説明も、同じ特徴——真の双方向的相互作用——によって説明されるのです。

美的普遍主義への批判
最後に、ナナイは、美的経験の相互作用説をバックに、美的経験が文化的普遍性を持つという考え──美的普遍主義を批判します。
というのも、相互作用説をとるなら、美的経験を得ようとする誰かの技法は、別のだれかのものとは大きく異なることがありうるからです。美的関与には様々な意図的行為の実行が伴い、我々は幼い頃からこれらの行為の実行方法や、どのような状況下でどの行動を取るべきかを学びます。私たちは親や養育者、仲間が美的経験を得ようとする様子を観察し、同じ結果を得るために彼らを模倣します。
どのような美的経験を得るかは、その達成方法に依存します。そしてそれは、生涯を通じて学ぶ技術に依存するのです。美的経験の能動的かつ相互作用的な性質を真剣に受け止めるならば、美的普遍主義は成立し得ない選択肢であるとナナイは結論付けています。

参考文献
Nanay, Bence. “Aesthetic Experience as Interaction.” Journal of the American Philosophical Association 10, no. 4 (2024): 715–27. https://doi.org/10.1017/apa.2023.21
美学者とは
美学者の役割
- 【美的判断】なぜある人が「美しい」と感じる対象を、別の人は「そうでもない」と思うのか
- 【芸術作品の価値】作品が私たちの感性に与える影響を、どう評価し、言葉で説明できるか
- 【日常の美】ファッションやインテリアなど身近なところに潜む「美しさ」をどのように考えるか
こうした問いに取り組むのが美学者の役割です。近年では、ゲームの体験やデザイン、スポーツや身体表現、さらにはSNSなど、従来は「美学」とはあまり結びつかなかった分野にまでその探究範囲が広がっています。哲学や芸術学と深く関係しながら、現代社会のあらゆる「感性の問題」に光を当てるのが、美学者と呼ばれる人々なのです。

【PROFILE】
北海道帯広市出身。早稲田大学文学研究科博士後期課程在籍。専門は、ゲーム研究、美学。主な論文に、「個人的なものとしてのゲームのプレイ: 卓越的プレイ、プレイスタイル、自己実現としての遊び」『REPLAYING JAPAN 6』、「ゲームにおける自由について──行為の創造者としてのプレイヤー──」『早稲田大学大学院 文学研究科紀要 第68輯』。ゲームとファッションとタコライスが好き。






























