【連載】美学者 上野悠の「美学でひもとく世界」
「卓越性」概念のはしり

スポーツ哲学においては2000年代あたりから「卓越性」という概念が、主にスポーツにおける価値を巡る議論において頻繁に持ち出されるようになりました。そのはじまりとなったのが、J・S・ラッセルによる、野球の審判の「ハードケース」を事例として取り扱った論文です。
ラッセルは、スポーツにおいては、ルールこそが絶対であり、審判はそれに従うだけの機械であるべきだ、というような考えに真っ向から反対し、審判の裁量について、その性質と限界を検討しています。
「競技のイデオロギー」

ラッセルが反対するのは、「競技のルールが完全な権威を持つ」という考えです。この考えによると、ルールは審判の権威と行動の「唯一の」正当なソースであり、審判が扱うべきものはそれらがすべてである以上、審判はゲームを進行させるために、公式に定められたルールの外に踏み出してはならない、ということになります。
ラッセルによると、こうした考えは、スポーツにおけるルールの本質、ならびに、審判の裁定的な役割に関した、広く共有される見解です。この見解のもとでは、私たちは、競技を正しい秩序のもとで、すべてが予測可能な形で設計されたルールによって支配された制度として捉えるのです。ルールは許容される行動と許容されない行動を完全に規定します。したがって、競技は、現実の生活や選択における、不確実性や曖昧さからの避難所を象徴しているのです。ラッセルはこれを、「競技のイデオロギー」と呼びます。
しかしこの考え方は、誤った幻想であるとラッセルは警鐘を鳴らします。ラッセルは、野球の審判における4つの「ハードケース」(判断が難しい事例)を挙げて、野球の試合を規定するルールに存在する様々な不確定性を示し、ルール自体では即座に解決されないような事態においては、審判の裁量権行使が必要であることを明らかにするのです。
4つの事例

ホームベースでの妨害
1887年、ルイビル対ブルックリンの一戦において、ルイビルの選手は、ホームベースを踏んだ直後、振り返ってブルックリンの捕手の動きを妨害し、次の走者へのタッチを阻止しました。そして、押し合いが続く中、次の走者がホームを踏んでしまったのです。審判は、妨害した選手に続いてホームを踏んだ走者をアウトとし、その走者の得点を認めませんでした。しかしこの判定は野球界で大きな論争を呼ぶこととなります。
というのも、当時のルールでは走者による野手への妨害を禁じていましたが、妨害した選手がホームを踏んだ時点で、彼は走者ではないということになるからです。当時のルールには、走者以外の選手が野手への妨害を禁止するような明文化されたルールは存在しませんでした。
審判の判断は当時のルールでは明示的にカバーされていませんでしたが、その判断は非難されることも、覆されることもなく、後のルール改正の根拠となったのです。このときの審判の裁量行使は、ゲームの健全さと公正さを守ったという点で正当なものであると言ってよいでしょう。

ファウルボールで三塁打
1947年7月、ボストン・レッドソックス対セントルイス・ブラウンズの試合で、レッドソックスの一塁手ジェイク・ジョーンズが打ったボールは、ファウルゾーンの三塁線外側をゆっくり転がっていきました。ボールが三塁線内側のフェアゾーンに転がっていったため、確実な単打を与えてしまうことを防ごうと、ブラウンズの投手はグローブをボールに投げつけ、三塁線から遠ざけました。このとき、審判はその打席が三塁打扱いとなることを認めたのです。ファウルボールで三塁打が与えられたのは史上初、そしておそらくは唯一のことです。
審判はその時、当時のルールを厳密に適用したのです。そのルールでは、打者が場内へ打ったボールを野手がグローブを投げて逸らした場合、打者に三塁打が与えられると定められていました。そして、このルールは適用される打球がフェアボールに限るかどうかを明確に決めていなかったのです。
この判定の正しさには疑問の余地があります。明文化はされていませんが、このルールは、野手がフェアボールを捕球できないと悟ったときに、飛んでくるボールにグローブを投げて妨害してしまう、という行為を防ぐ意図がありました。
さらに、グローブがボールに触れた時点でボールはファウルゾーンにありました。ファウルボールに関するルールでは、一塁と三塁際のファウルゾーン内で、地面以外の物体に触れた時点でファウルとなることになっていました。となると、グローブは地面以外の物体であるため、審判はファウルボールを宣告することもできたのです。
したがって、このルールの意図と適用範囲に関する疑念が生じると同時に、ルール内部の矛盾も浮き彫りとなったのです。つまり審判は、ただルールから論理的にのみ導かれるのではない選択を迫られたのです。その後、ルールは改正され、現行のルールは「打球へのグローブ投擲の罰則は『フェアボール』にのみ適用される」と規定しています。これはファウルボールを三塁打扱いすることを防ぐためのもので、ファウルゾーン内の打球へのグローブ投擲を容認する意図がくみ取れます。

ホークの犠牲
1957年4月、シンシナティ・レッズとミルウォーキー・ブレーブスの対戦。レッズの三塁手・ドン・ホークは二塁に、一塁には別の走者がいました。レッズの次の打者は、ブレーブスの遊撃手に向けて併殺打を打ってしまいました。併殺を阻止するため、ホークはなんと自らボールを処理し、呆然とする遊撃手へ向けて球を投げたのです。
ホークは打球処理中の野手を妨害したので、当然アウトとなります。しかし、審判は他の走者を塁に残しました。なぜなら、二塁打を阻止するために故意に打球処理を妨害した攻撃側選手にアウト以上のペナルティを課すルールが存在しなかったからです。こうしてホークは、ダブルプレーを阻止するために自らを犠牲にすることによって、実質的に望みを達成してしまったのです。その結果、ブレーブスは一塁と二塁に走者を残したまま攻撃を継続できました。もし故意の打球処理妨害がなければ、走者は1人だけ、アウトも残すあと1つだけになっていたはずです。のちにこのルールは改正されたようです。

バットの先に付着物が
4つ目のルール論争は1983年7月、ヤンキー・スタジアムで発生しました。ラッセルはこれを「世界で一番有名な野球ルールの論争」だと言います。
カンザスシティ・ロイヤルズの選手、ジョージ・ブレットが9回裏2アウトで、試合を決めるかもしれない2点本塁打を放ちましたが、バットの先端部分にパインタール樹脂が塗布されていたことが発覚し、この本塁打は認められなかったのです。
ブレットは違法バット使用によりアウトを宣告され、ロイヤルズはニューヨーク・ヤンキースに4対3で敗れてしまいました。当時のルールは、パインタールのような粘着性物質が付着した状態での打球は避けようがなくアウトになると規定していました。
しかし、ブレットがバットに余分なパインタールを付けていたことで特別な利点を得たとは到底考えられず、むしろバット上部に粘着物質が付着していることは不利に働くはずでさえあるはずでした。したがって、審判にとっても、ブレットが不当な利点や恩恵なしに試合を決める可能性のある本塁打を正当に成し遂げたことは明白であり、彼をアウトとするのは「不当」な判断であるとも考えられるのです。
では、審判団の判定は正しかったのでしょうか。アメリカンリーグのリー・マクフェイル会長は後にこの本塁打を有効とし、(緊迫した優勝争いにおける重要な一戦だった)試合の残り部分をその時点から再試合するように命じました。ルールに不備があったことが明らかとなったわけです(その後改正されています)。
審判団自身もブレットのホームランを取り消すのは「不当」に思っていたようでしたが、ルールに記載のある文言を適用せざるを得なかったのです。審判の一人はのちに「ホームランを取り消すのは正しくないように思えたが、ルールはルールだ。審判が頼れるのはルールだけだ」と記しています。ロイヤルズはブレットのホームランが認められたことで、最終的に5対4で勝利しました。
ゲームと法律のアナロジー

これらの事例はいずれも、試合を統制するルールが常に決定的な指針であるとは限らないことを、それぞれ異なる状況によって示しています。ルールは意味・意図・適用範囲において曖昧または不確定であったり、矛盾したりする可能性があるのです。これらの事例はいずれも、審判がルールを超えた裁量を行使することの実践的な必要性を提起していると見なすことができます。
しかしここで問題が生じます。ルールが宛にならないとき、審判は「何に」したがって裁量権を行使すればよいのでしょうか。ラッセルによると、それはスポーツにおける「原則」です。この考え方は、法哲学における理論、特に、ロナルド・ドウォーキンによる「解釈主義」と呼ばれる考え方に基づいています。
ラッセルによると、法哲学は、司法関係者の裁量権行使が道徳的・実践的必然であるという認識を、非常に長い間保持してきました。この見解の主要な対抗立場は、しばしば「法形式主義」と呼ばれる立場です。法形式主義とは、法は規則体系に他ならず、裁判官は特定の事案の事実に対して、単なる三段論法的アプローチで正しい規則を発見・適用するに過ぎないとする見解です。したがって、法形式主義によれば、裁判官に真の裁量権は一切存在せず、関連規則が適用されるべき事案の事実に対して規則を機械的に適用するだけなのです。この立場から、ある事案に適用できる規則が見つからない場合、その事案を裁く司法権限は存在しないという結論が導かれます。ラッセルは、法形式主義はスポーツにおけるゲーム理論や「審判が頼れるのは規則だけである」という考え方と類似性を持つと指摘しています。

20世紀の法哲学の多くは、法形式主義の反駁に関心を寄せてきましたが、これは哲学的には、やや「藁人形論法」という実態になっているようです。というのも、このかなり極端な立場を擁護すると言える法哲学者を見つけるのは困難であり、これはスポーツ哲学においても同様のことが言えるからです。しかしながら、法哲学者たちがこの立場を真剣に扱ってきたのは以下の二つの理由によります。
(2) 哲学的根拠が乏しいにもかかわらず、裁判官の行為に関する文化的通念として広く浸透していること(多くの裁判官自身の間でも同様の認識が存在する)
そして、この第二の点は、スポーツにおける形式主義の普及においても同じことが言えることを、ラッセルは示唆しています。
ドワークンは法的推論への形式主義的アプローチに対し、主に以下の二つの批判を展開しています。
(2) 困難な事例においては、そのような原則を適用し、それらの原則の趣旨に合致する形で解決するとともに、規則同士および原則体系内の規則に整合性と正当性を与えなければならないこと
法の規則とは、道徳的原則に基づく形でその都度「解釈」されるものであるとドウォーキンは考えました。この原則と規則の関係性がスポーツにおいても適用できるとラッセルは考えているわけですね。
スポーツにおける「原則」とは

では、スポーツにおいて、原則とは何なのでしょうか。法においては道徳でしたが、スポーツではそれとは異なるものが適用されるようです。
ラッセルはここで、スポーツ哲学では有名な、「ゲーム裁定の第一原則」と呼ばれるものを提示します。
ラッセルがスポーツにおける原則として提示するものは以下の4つです。
(2) ルールは適切な競技バランスを達成するために解釈されるべきである
(3) ルールはフェアプレーとスポーツマンシップの原則に従って解釈されるべきである
(4) ルールはゲームの健全な運営を維持するために解釈されるべきである
このうち、重要なのは、かなり明確に一番目の「ルールは、ゲームの競技的目標達成に内在する卓越性が損なわれることなく、維持・促進されるような方法で解釈されるべきである」というものです。ラッセル自身も残り3つはここから派生的に存在するものだと述べています。
ではこの、「ゲーム裁定の第一原則」とはいったいどういうものなのでしょうか。まず、ここで言う「競技目標」とは、ゲームが参加者の進路に設定する特定の障害や非効率性を克服して勝利することを意味しています。ゲームの基本的特徴は、特定の目標達成への障害を設定し、競技における競争が参加者がいかにそれらの障害を克服できるかを試すように設計されている点にあるのです(ここにはバーナード・スーツの影響が見られます)。
そうであるならば、ゲームを確立するルールは、それらの障害と、それらを克服するために利用可能な関連する卓越性(=遊戯的手段)の実現を可能にする文脈を作り出すように解釈されるべきであるとラッセルは述べています。これこそが、ゲームにおけるルールの解釈を支配する最も基本的な原則なのです。

そして「卓越性」という概念が、ゲーム哲学において大きく取り沙汰されるようになったのはおそらくここからです。個人的に興味深いのは、現在では、主にゲームの中心的「価値」について議論される際に良く持ち出されるのが卓越性概念なのですが、はじまりは「審判の裁量権」について擁護するために持ち出された概念であるという点です。しかし、確かに、その競技が「どうであるべきか」を一番頻繁に考える立場にあるのは審判なのかもしれません。そういう意味で言うならば、卓越性概念の議論が審判についての話から始まっているのは、それなりに必然性があることなのかもしれません。
参考文献
Russell, J.S. 1999. “Are Rules All an Umpire Has to Work With?” Journal of the Philosophy of Sport 26 (1): 27–49. doi:10.1080/00948705.1999.9714577.
美学者とは
美学者の役割
- 【美的判断】なぜある人が「美しい」と感じる対象を、別の人は「そうでもない」と思うのか
- 【芸術作品の価値】作品が私たちの感性に与える影響を、どう評価し、言葉で説明できるか
- 【日常の美】ファッションやインテリアなど身近なところに潜む「美しさ」をどのように考えるか
こうした問いに取り組むのが美学者の役割です。近年では、ゲームの体験やデザイン、スポーツや身体表現、さらにはSNSなど、従来は「美学」とはあまり結びつかなかった分野にまでその探究範囲が広がっています。哲学や芸術学と深く関係しながら、現代社会のあらゆる「感性の問題」に光を当てるのが、美学者と呼ばれる人々なのです。

【PROFILE】
北海道帯広市出身。早稲田大学文学研究科博士後期課程在籍。専門は、ゲーム研究、美学。主な論文に、「個人的なものとしてのゲームのプレイ: 卓越的プレイ、プレイスタイル、自己実現としての遊び」『REPLAYING JAPAN 6』、「ゲームにおける自由について──行為の創造者としてのプレイヤー──」『早稲田大学大学院 文学研究科紀要 第68輯』。ゲームとファッションとタコライスが好き。































