【連載】美学者 上野悠の「美学でひもとく世界」
美的価値論

近年の美学では、「美的価値」という概念についての議論が盛んになってきています。前回の記事では、美的価値論において長らくデフォルトの理論となっていた「快楽説」が問いに付されており、そのオルタナティブとなる理論がいくつも立ち上がってきていることを解説いたしました。
今回は、そうした「反快楽説」的な立場をとる論者の中でも、美的価値についての現行の議論そのものを覆そうとするユニークな立場をご紹介いたします。スローガンは「価値があるから美しいのではなく、美しいから価値がある」です。
美的価値論の誤解

オーバーン大学のジェームズ・シェリーが書いた、美的価値論についての、その名も「美的価値とは何か?」という題の論文をご紹介いたします。
まず、シェリーは「美しいものは価値があるから美しいのか、それとも美しいから価値があるのか」という問いに対して、美的価値に関するほとんどの理論は前者を前提としているとしている一方で、彼自身は後者を主張すると言います。というのも、シェリーは、美的価値に関するいかなる理論も、美的価値を持つものがなぜ美的価値を持つのかを説明できず、単にどの価値が美的価値であるかを示すだけであると言うのです。
このことを示すために、シェリーは、論文の大半で、私たちが美的価値についての問いを誤解してきたことを論じます。シェリーによると、私たちは「美的価値とは何か」と問う際に、何を求めているのかを誤解してきたのです。
前提の整理
前提として、シェリーは、美的価値についての問い(以下、AVQ)を次のように言い換えることができることを示します。
さらにこの問いは、以下の二つの単純な問いから成ります。すなわち、「美的価値を価値たらしめるものは何か?」という問いと、「美的価値を美的たらしめるものは何か?」という問いです。シェリーは、これら二つの単純な質問を、価値問題(以下、VQ)と美的問題(以下、AQ)と呼ぶことにします。
VQ(価値問題)に答えることは、美的価値がどのような種類の価値であるかを特定することであると広く想定されています。一方で、AQ(美的問題)に答えることは、美的価値を他の価値から区別し、同種の他の価値から切り離すことであると広く想定されています。このことを言い換えて、シェリーは、「VQは、種「美的価値」の属を求める要求である」と「AQは種「美的価値」の差別項を求める要求である」と言います。
すると、当然ながら、これら二つの仮定を立てるならば、「AVQは種「美的価値」の属-差別項定義を求める要求である」という仮定も同時に成り立つことになります。
問いの制限

まず、シェリーはVQに焦点を当てます。哲学や美学においては、価値とは合理化要因であるということが広く想定されています。つまり、あるものが価値を持つとは、理由を生成するものである、ということなのです。したがって、美的価値という種の属を問うことは、美的価値を持つことによって、そのものが生み出す理由の種類を問うことだと考えられているのです。
これにより、有力な美的価値論は、対象が美的価値を有することによって生み出す理由の種類を特定することで、美的価値の属種を特定するものであると示すものとなるのがふつうとなっています。VQは美的価値がどのような種類の価値であるかを特定するものでしたが、その「答え方」については、暗に制約されているわけです。シェリーはこれを「合理的制約」と言います。このような仮定は、美的価値に関する私たちの思考の多くが、美的価値に関する快楽主義の周りに集まってきていることに表れていると言います。
このことは美的理論にも言えます。現状では、美的なものは究極的には感覚的価値に還元されると広く想定されています。したがって、美的価値という種の差異を要求することは、美的価値が知覚的であるという意味を問うことであると考えられているわけです。シェリーはこれを、「知覚的制約」と言います。また、これらの制約は、AVQにもそのまま適用されます。
美的価値論における暗黙の仮定
もう一つの前提として、シェリーは、VQとAQへの回答とその制約が互いに影響し合うかどうかについて触れます。「一方への回答が他方への回答に何らかの制約を課すのか」という問いについては、シェリーは、答えは「ノー」であると言います。属-差定義において、属と差は互いに論理的に独立していなければならないのです。もしそうでなく、属と差異が何らかの形で論理的に相互に含意し合うならば、前者は統一する力を、後者は区別する力を失ってしまうのです。したがって、VQとAQが属と差異の要求であると仮定する限り、一方の質問への回答が他方の回答に何らの制約も課さないことが言えます。
以上で検討してきた、美的価値論における仮定を、シェリーは以下のような9つの項目にまとめます。
- 美的価値に関する問い(AVQ)は美的価値の種(VQ)と差異(AQ)の問いに還元される。
- VQは美的価値という種の属(genus)を求める要求である。
- AQは美的価値という種の差異(differentia)を求める要求である。
- AVQは美的価値という種の属-差異定義を求める要求である。
- VQへの回答は、対象が美的価値を持つことによって生み出す理由の種類を特定しなければならない。
- AQへの回答は、美的価値が知覚的であるという意味を特定しなければならない。
- AVQへの回答は、VQとAQへの解答に対して課される制約によってのみ制約される。
- VQへの回答は、AQへの回答から論理的・認識論的に独立している。
- AQへの回答は、VQへの回答から論理的・認識論的に独立している。
これらの前提を分類すると、前提1・4・7はAVQを、前提2・5・8はVQを、前提3・6・9はAQを扱っていることになります。
シェリーの疑念
シェリーはまず、VQに直接関わる仮定2、5、8から疑問を投げかけます。シェリーはVQの内実が以下のようなものであると仮定します。
この定義は、私たちが価値問答を投げかける際に念頭に置いているものに近いものだと考えられます。美的価値が価値という属の一種であることを知るには、美的価値が価値であるという事実そのものを知るだけで十分ではあるのですが、美的価値がVQにおいて我々が求めるような、より具体的な属種であることを知るには、価値を持つものすべてが持つわけではないが、美的価値を持つものすべてにあてはまるような、何らかの価値について知る必要があるのです。例えば、快楽主義者は、美的価値を持つものはすべて快楽的価値を持つこと、そして価値を持つものすべてが快楽的価値を持つわけではない、ということを論じる必要があるのです。

しかし、シェリーはここでクリティカルな疑問を投げかけます。美的価値を持つすべてのものが快楽的価値を持つかどうか——言い換えれば、快楽主義が外延的に妥当かどうか(美的価値を持つ具体的なものを適切に示せているか)——を知るためには、快楽主義者は価値が美的である場合とそうでない場合を区別できねばならず、そのためには、美的価値を美的たらしめる要素を知っている必要があるように思われるのです。この点は快楽主義からあらゆる価値理論へと一般化されます。美的価値をより一般的な価値の種類に還元できる場合にのみ、価値についての理論は成り立ちますが、その還元を支持するためには、美的価値を持つすべてのものが、あなたが還元するより一般的な種類の価値も持っていることを知っていなければならないのです。言い換えれば、あなたの理論が外延的に妥当であることを知る必要があるのですが、それを知るためには、まず何かが美的価値を持つ場合と持たない場合を区別できなければならないのです。そしてそれは、美的価値を美的たらしめるものを知らなければ理解できません。したがって、美的価値の問い(AVQ)への答えを先に知っていなければ、価値の問い(VQ)への答えを知ることは不可能となるのです。
この疑問に対してこう答える人がいるかもしれません。われわれは何かに美的価値を帰属する際、それがどのようにして美的価値を持つのかについて理解している場合はおそらくほとんどありません。にもかかわらず、私たちはそれが美的価値を持っているということは直観的に理解できています。したがって、美的価値を持つすべてのものが、美的価値が還元されるものとして定めたより一般的な価値も持つことを知るために、美的価値に関する問いへの答えを必要としないことを認めるべきであると結論付けることができるかもしれません。そうすると快楽主義の立場は安泰となるわけです。

このような想定反論に対し、シェリーは、第一に、美的価値を持つものはすべて快楽的価値を持つという主張は、美的価値を持つものはすべて、非快楽主義的な価値理論が美的価値に還元されるものとして指定したあらゆる非快楽的価値も持つという主張と矛盾しない、ということを指摘します。一般的に言って、事物には複数の価値が存在する可能性があり、実際そうであることが多いのです。
だとするならば、「美しいものは快楽を与えるから美しいのか?それとも、それらが快楽をもたらすのは、それらが美しいからなのか?」という問いに対しては、前者を肯定した場のみ、価値の問いに答え、価値理論を提示したことになりますが、後者の立場を表明した場合は、価値理論には全く答えられていないことになります。
このことは、快楽主義だけでなく、すべての価値理論について同じことが言えます。価値理論は、美的価値の定義や美的価値を持つ対象の特定、あるいは美的価値を持つ全ての対象がその還元先となる価値を持つことの証明以上に、さらなる説明を求められます。理論は次のことを示せなければならないのです。
(b) その美的価値が、美的価値を持つ事物が有するような、より根本的な価値に還元されること。
(c) そうした、より根本的な価値こそが美的価値が還元される先であること。
しかしながら、美的価値を美的たらしめるものを決定する何らかの根拠が得られるまでは、(a)を決定する根拠も、(b)や(c)を決定する根拠も得られません。ですが、そうしたところでもまだ結論は出せないのです。なぜなら、上記の仮定8( VQへの答えは、AQへの答えから論理的・認識論的に独立している)の通り、価値理論は美的理論から導出できないからです。
価値理論は仮定8を単純に放棄することもできません。なぜなら、一般的に言って、種に対する属は、その差別項から論理的・認識論的に独立していなければならないということがあるため、仮定8は、仮定2── VQ(価値の根本的問い)とは、価値よりも具体的かつ美的価値よりも根本的な、美的価値という種の属を求める要求である──から導かれるものだからです。そもそも、価値理論は、これらの基準を満たす属を特定することでVQに答えるという試みです。したがって、仮定2を放棄することは、価値理論そのものを放棄することに等しいのです。
上記の論理により、シェリーは価値理論の成立そのものを疑っているのです。
美的であることは赤であることと同じ?
シェリーはこのことを赤い三角形の例を用いて説明します。我々は美的価値問題(AVQ)「美学的価値を美学的価値たらしめるものは何か?」が、次のような疑問形の文を反映していると捉えてきたと言えます。
この「赤い三角形問題」は、次のように分解されます。
この還元が可能なのは、RTQの主題である種「赤い三角形」自体が、属「三角形」と差別項「赤」に余りなく還元されるからです。赤い三角形であるということは、三角形であることと赤いこと以上の何ものでもありません。種が属と差異に還元されると言うことは、その種が属と差異に依存する一方で、属と差異がその種に一切依存しないという関係を意味します。この意味で、属と差異は種よりも形而上学的に基礎的である必要があるのです。赤い三角形が赤い三角形であるのは、三角形であり赤色であるからであって、赤い三角形であるから三角形であるわけでも、赤色であるわけでもないのです。
一方で、この問いはどうでしょう。
赤い三角形の例に倣うと、この問いは以下のように還元されます。
この場合、色が属、赤が差異となりますが、色「赤」の問いは赤い三角形の問いに続くものではないのです。その理由としては、一つは、種である赤色と差異である赤の間に差異が存在しないように見えるため、「何が赤色を赤色たらしめるのか?」という問いと「何が赤色を赤たらしめるのか?」という問いとの間に差がないように見えることが挙げられます。つまり、「赤であること」はすでに「色があること」に言及してしまっているのです。
「赤く色づいている」ということが単に「赤であること」と同一であるならば、色「赤」という種は差異を持たない──おそらくはそれ自体が差異である──ということになります。

さらに、「赤色」問題と「赤い三角形」問題の第二の相違点が挙げられます。それは、「赤色」という種は、「赤い三角形」という種が「三角形」という属に対して占める立場を、「色」という属に対して占めていないことです。形而上学的に見て、属「三角形」は種「赤い三角形」よりもより基本的です。赤い三角形が三角形であるのは、それが「赤い三角形」であるからではなく、「三角形であること」があてはまるものの一部であるゆえに、三角形なのです。色「赤」ではこの順序が逆転してしまいます。ここでは属が種に依存し、種がより基本的となります。赤いものは、色を持つから赤いのではなく、赤いから色を持っているのです。
このように、色「赤」の問の場合は、属の問いと差異の問いに答えた上でそれらを足し合わせることで種の問いに答える、ということはできません。属の問いに対する答えが存在する限り、それは種の問いへの答えに依存してしまうからです。
シェリーは、美的価値の問題は、赤い三角形の問題ではなく色「赤」の問題を反映しているものだと言います。もしこれが真ならば、次のような、命題(D)と(G)も真となります。
(G) 種的美的価値は属的価値よりも基本的である。
(D)が真ならば、種「美的価値」は差異「美的」に還元されず、もし(G)が真ならば、種「美的価値」は属「価値」やそれより基礎的でないような、いかなる属にも還元されません。したがって(D)と(G)が真であることは、仮定1( AVQはVQとAQに還元される)を否定することになります。そして、仮定1が偽ならば、リスト上の残りの仮定2から9もすべて偽となります。なぜならそれらは全て仮定1に依存しているからです。そして、シェリーは(D)も(G)も真であると考えています。

まず、(D)について、シェリーは美的価値の差異性が「美的」である場合を想定します。すると、美的価値を持つものは、赤い三角形が三角形であると同時に赤いように、価値的であると同時に美的であることになります。しかし、シェリーは物自体は美的であることはありえず、「美的」とは、判断や価値にはられるレッテルであると考えています。美的なものの集合というものは存在せず、「美的価値」が「赤色」と同じように、差異を持たないカテゴリー──おそらくは差異そのもの──なのです。
次に、(G)については、シェリーは「美的価値を持つものは、価値があるから美的価値を持つのか?それとも美的価値があるから価値があるのか?」という問いを持ち出し、「美的価値のあるものは、美的価値があるゆえに価値がある」という答える立場をとります。シェリー曰く、美しいものが美しいゆえに価値を持つという主張は、赤いものが赤いゆえに色を持つという主張と同じくらい自明であることです。ゆえに、種「美的価値」は属となる「価値」よりも基本的なものなのです。
シェリーによる美的価値論への解答

シェリーは美的価値についての議論を以下のように結論付けます。もし美的価値がそれ以上還元できないような基礎的な価値であるならば、その担い手が美的であるか価値あるかを説明するものは、美的価値以上に根本的なものは存在しないことになります。もちろん、「特定の」美的価値の担い手については、それを美的に価値あるものとするより根本的な何か、すなわちその担い手が完全に決定された在り方があります(絵画における色づかいなど)。それを明らかにすることは、哲学の課題ではなく批評の課題なのです。
一般的に、哲学的な説明は常に、より基礎的でないものからより基礎的なものへと進みますが、必ずしも具体的なものから一般的なものへと進むわけではありません。シェリーが言うには、美的価値の説明は一般から個別へと進みます。なぜなら美的価値の場合、個別が一般を決定し、したがってより根本的だからです。これは美的価値の説明が、完全に定められた美的価値の事例に到達した時点で必然的に終結することを意味します。なぜなら、そこが説明の終着点だからです。

「美的価値とは何か?」という問いについては、シェリーはこれを「どの価値が美的価値なのか?」と捉えることを提案しています。この方法で美的価値の問い(AVQ)を解釈することは、この問いを、指示的定義を求める要求として扱うことになります。そのような定義には様々な形が考えられ、例えば、典型的な事例のリストを提示する方法や、あるいはその種別──美しいもの、崇高なもの、絵のように美しいもの、悲劇的なもの、滑稽なものなど──を列挙する方法などがあります。
これについてシェリーが提案するのはより直接的なアプローチです。シェリーは「どの価値が美的であるかを知りたいなら、価値が美的であるとはどういうことかを説明すればよいのではないか」と言います。
この問いのもとで、シェリーは上記の仮定5と6を再考し、それぞれに保存すべき価値があると言います。仮定5と6は以下のようなものでした。
6.美的価値が知覚的である意味を、AQ(美的価値の質問)の回答は特定しなければならない。(知覚的制約)
シェリーは、これらの前提は、美的価値を持つことが合理的かつ知覚的に制約されることを示唆する点で正しいといいますが、一方で、これらの制約を別個のものとして扱う点は誤りであると指摘します。美的価値についての問いの答えは、美的価値を持つことによって対象が生み出す理由の種類を特定しなければならないですが、同時に、その理由は知覚的なものです。すなわち、美的理由とは何かを特定の方法で知覚する理由です。この二重の制約のもとで、シェリーは美的価値について以下のように説明を与えます。

美的価値とは、ある対象が、その対象をまさにそのように知覚する理由を与えるものとして知覚する理由を与えるという価値である。
何が何やらという感じですが、ようするに、ある対象に美的価値があると判断することは、その対象を、まさにその対象をそのように知覚することを正当化するものとして捉えること、ということです。一見すると説明が循環しているように見えますが、そのような想定反論に対し、シェリーは循環しているのではなく、自己言及的なのだと強調します。シェリー曰く、あらゆる美的理由は、あらゆる美的知覚と同様に、その内容の一部として自らを包含しています。これが美的経験の特異な自己維持的性質の源泉であり、したがってそのような経験が観想的あるいは無関心的であるという美的経験についてのよく広まった見解の源泉でもあるのだと主張しています。
参考文献
Shelley, James. 2024. “What is Aesthetic Value?” Philosophical Topics 52 (1):25-42.
美学者とは
美学者の役割
- 【美的判断】なぜある人が「美しい」と感じる対象を、別の人は「そうでもない」と思うのか
- 【芸術作品の価値】作品が私たちの感性に与える影響を、どう評価し、言葉で説明できるか
- 【日常の美】ファッションやインテリアなど身近なところに潜む「美しさ」をどのように考えるか
こうした問いに取り組むのが美学者の役割です。近年では、ゲームの体験やデザイン、スポーツや身体表現、さらにはSNSなど、従来は「美学」とはあまり結びつかなかった分野にまでその探究範囲が広がっています。哲学や芸術学と深く関係しながら、現代社会のあらゆる「感性の問題」に光を当てるのが、美学者と呼ばれる人々なのです。

【PROFILE】
北海道帯広市出身。早稲田大学文学研究科博士後期課程在籍。専門は、ゲーム研究、美学。主な論文に、「個人的なものとしてのゲームのプレイ: 卓越的プレイ、プレイスタイル、自己実現としての遊び」『REPLAYING JAPAN 6』、「ゲームにおける自由について──行為の創造者としてのプレイヤー──」『早稲田大学大学院 文学研究科紀要 第68輯』。ゲームとファッションとタコライスが好き。


































