【連載】美学者 上野悠の「美学でひもとく世界」
スポーツにおける美

スポーツに特有の美的経験とはどのようなものなのでしょうか? スポーツを美学のスコープのもとで捉えるなら、まず出てくるのは「プレイの美しさ」でしょう。野球選手のホームランの美しさや、サッカー選手のシュートやドリブルの美しさなど、多くの場合は「観客」の目線から「スポーツにおける美」について語られることが多いように思われます。しかし、スポーツにおける美は観客目線だけではなく、「プレイヤー目線」でも語ることも十分に可能なのではないでしょうか。今回は、そんななかで、プレイヤー目線でのスポーツの美について、「相互作用」をテーマに一つの見解を提示したMargus Vihalemによる論文をご紹介いたします。
Vihalem は、スポーツとは「身体的活動を通じて特定の強化された体験を提供する活動」であると定義します。ただし「身体的活動」を「身体に限定される」と解釈すべきではなく、スポーツは、新たなシナプス・アイデア・関係性を引き起こすことで認知システム全体を刺激するものであると言います。この経験は、主体と客体の伝統的二元論を放棄するものであり、スポーツ経験とは、その経験に寄与する世界との能動的かつ身体化された関係性を探求する営みであると主張します。

Vihalem は、ランニングとクロスカントリースキーに着目します。一般的に、ランニングとクロスカントリースキーは持久力スポーツと見なされることが多いものです。しかしながら、これらのスポーツの主目的は必ずしも「耐えること」ではないのだと彼は言います。これらスポーツがもたらす、受容性の高まりと可動性の強化は、実践者の世界や環境との関わりそのものを変容させるのです。持久力を超えて、ランニングとスキーは、研ぎ澄まされた身体的・感覚的・精神的活動から生まれる集中力、興奮、満足感を組み合わせた特異な経験を提供します。そして、スポーツの美的可能性はまさにこの基盤に求められるべきであると主張しているのです。
身体の美化
自らをより速く強く感じることは、往々にして、より生き生きと反応的になるという達成として見なされます。これにより、スポーツとは常に身体の強化と美化を意味するのだと Vihalem は言います。
とは言っても、身体の美的特徴を発展させることは、スポーツの美学における一つの側面に過ぎず、必ずしも最も重要な要素ではありません。スポーツの美的要素は、身体とその外観の美化だけに還元することはできないのです。しかしながら、こうした関係性は、スポーツを美化しスペクタクルへと変容させる上で重要な役割を果たすのだと Vihalem は主張します。
スポーツを行う際、人は通常の状態とは全く異なる形で自らの身体、その動き、そして周囲を経験します。日常のルーティンや知覚の枠組みを超えて自分自身と身体を追い込むことで、身体が通常考えられているよりも、自らの身体がはるかにダイナミックで回復力に富んでいることに気づかされるのです。その動きや世界との相互作用を検証することで、自らの身体の隠された可能性に気づき始めます。そうすることで、周囲の世界に対してどのように作用し反応するかをより詳細に探求し始めるのです。
スポーツと身体

身体とパフォーマンスが美的なものとなることは、単に視覚的に快いものと捉えられるだけでなく、能動的な意味でも理解され得ます。スポーツを実践することは、しばしば非常に複雑な性質を持つ特定の動きや動作を調整する能力に特別な重点を置くことを意味します。したがって、人間の脳の高度に凝縮された活動と、身体の他の部分との相互作用が求められるのです。
一般的に、スポーツは統合され発展すべき様々な認知能力の複合体を必要とします。 Vihalem いわく、この複雑さは、パフォーマンスのレベルで美的活動としてスポーツを楽しむ以前に、すでに美的快を伴うと言えるのです。認知能力を着実に高め強化する進歩なくして、その卓越性は目指すべき目標となり得ません。身体運動を最大限に協調させ享受するためには、感覚だけでなく、神経から靭帯に至る複雑なシステムとして捉えられた全身を統制しなければならないのです。
スポーツには、あらゆる認知能力と身体能力における卓越性の追求、より速く・高く・遠くへ動く身体の固有能力の開発、そして最後に重要なこととして、自らの身体とそのパフォーマンスを美的に教育し楽しむことを学ぶことが含まれると Vihalem は言います。
現象学的記述を通した分析

Vihalem はランニングとクロスカントリースキーを例に挙げ、これらを行う際に何を感じ、それらの感覚をいかにして美的経験とみなせるのかを探ろうとします。その際に、古典的な考え方では、外的な印象(周囲の環境——都市景観や手つかずの自然の風景など——を楽しむこと)と内的な感情(何かを行う際に感じるもの)を区別するだろうことを指摘しますが、スポーツの美的性質について論じる際、この道筋が正しいとは限らないのだと注意を促します。
彼は、自らのランニング中の経験の現象学的記述を通して、周囲の環境(ランニングウェアの快適さや、踏みしめる足を通して得られる地面の質感)との相互作用や、全身の細胞が走る努力へとむけられている感覚、身体が自律的に動き始める感覚、身体から距離を置き、映画のように自らの観察しているような経験、といったものに焦点を当てています。
Vihalem は、スポーツという経験を分析する上で、「何が私を駆り立てるのか」という問いが核心的であると主張します。彼は、時間とエネルギーを消費する定期的な訓練に身体を捧げたいという衝動はどこから来るのか、という問いの答えこそが、まさにスポーツの美的要素だと主張します。彼は、様々な理由でスポーツを楽しみますが、その全てに何らかの感情や、何かしらの影響を受ける感覚が含まれているのだと言います。
一般的に言って、感情や感覚は一次的な現象ではなく、何らかの反応・達成・適応として捉えられます。しかし感情は、ある人を行動へと駆り立て、追求すべき刺激を構築する点で根本的なものであるともみなせるのです。
スポーツの動機付けに関するいくつかの説明

人々がスポーツ活動に従事する理由を説明するため、異なる議論が考えられます。第一に、結果と達成が全てだと主張することができます。つまり、より速く、より強くなりたいという単純な欲求、あるいは最終的には見栄えよく鍛え上げられた身体を得て、自分自身と他者、双方にとって身体的に魅力的になりたいという願望です。これは確かに一部のケースでは真実だが、多くの場合のスポーツ経験には当てはまらないように思われます。
第二に、スポーツは満足感と喜びをもたらすと主張できます。ランニングは多くのエネルギーを消費し、後に疲労を感じるかもしれないが、それは自分の身体とその隠れた可能性へのより深いアクセスを提供するのです。このとき、持続的な努力を通じて身体とのより良い接触を得ることは、動機付けの重要な原動力となります。身体は美的活動と快楽の中心として機能すると見なすことができるのです。
第三に、ランニングやクロスカントリースキーを通じて、周囲の環境への美的要素を帯びたアクセスを可能にしていると考えられます。走ることは単なる移動ではなく、滑ることは単なる滑走ではないのであり、それらは美的経験そのものなのです。走ったり滑ったりするとき、プレイヤーはより多くのことを見聞きし(しばしば嗅ぎ触れることで)、環境へと没入します。そうして感覚を研ぎ澄ますことで、しばしば深い没入状態に達することができるのです。こうした状態は美的満足をもたらすと考えられます。
第四に、内的な感情と外的な条件が組み合わさることで、独特の喜びが生まれていると考えられます。事実と感情の特異な結合、あるいは絡み合いこそが、ランニングやスキーをこれほどの喜び、あるいは雰囲気を創出する美的出来事たらしめるのです。 Vihalem が言うには、スポーツの美的経験は、美的判断を与えるというより、人を影響し変容させる感覚的なものに関わるものなのです。

また、 Vihalem は、ランニングやスキーに出かけるたびに経験は異なり、この差異こそがランニングやスキーを美的に愉しいものとするのだということを指摘します。条件が大幅に変化するたびに、身体の美的受容性や適切に調整・反応する能力が試されます。身体の美的受容性と感情性は、変化によって高められます。 そのとき、身体は、強烈な美的経験を達成するための活性化装置であると同時に美的対象でもあるのだと Vihalem は言います。しかし、身体の美的経験をこれほど特異なものにしているのは何なのでしょうか。 Vihalemはこの問いに次のように答えます。
相互作用
まず Vihalem は、スポーツ活動を含むあらゆる経験は、関係する存在が経験(すなわち享受、あるいは苦痛)を可能にするという、相互作用と適応の関係から成り立つのだと指摘します。このとき、感情は極めて重要な役割を果たします。経験によって引き起こされる感情こそが、経験の過程で何が起きているかを理解する手がかりとなるのです。さらに、感情は、満足感と充実感を与えるため、それ自体として美的に経験され得る美的性質となるのだと Vihalem は言います。

また、ランニングシューズの下の荒い砂利や、スキー板の下の滑りやすい雪を感じることは、環境との基本的な接触を確立します。実践者は、前進が容易か妨げられるかを体感しながら、空気や地面の分子と触れ合うのです。 Vihalem は、このようにして、カントの無関心性の命題は排除され、周囲との関係は能動的かつ関与した状態となるのだと主張します。行動を通じて、「私」は遠くから眺める観察者ではなくなり、文字通り周囲の環境の一部となるのです。
実践者は、自らの身体が作用し反応するのを実感することができます。身体は自律的に作用し、物理的条件や状況に反応するのです。 Vihalem は、この相互作用こそが美的経験であると主張します。そして、彼が言うには、身体が影響を受ける条件に適応している度合いによって、その強度は増減するのです。走ったり滑ったりするとき、「私」は感覚を通じて周囲に完全に存在し晒され、その質や条件を把握し、自らの行動をそれに調整しようとする熱意を持ちます。この情動的な開放性と存在感こそが、スポーツを通じた美的関係を理解する基盤であると Vihalem は言います。
マラソンに向けたトレーニングを通して、わたしたちは身体をかつてない卓越性と持久力の域へ高めたいと考えるかもしれません。しかし、その過程で、実践者は必ずしも身体を特定の結果を達成するための単純な道具や手段とは考えていないのだと言います。ランニングをするときの Vihalem 自身を駆り立てるものは、身体を何らかの目的達成の手段と捉えたり、一定のパフォーマンスを強いる対象として捉えたりするような、素朴な考え方を確実に超越していると彼は言います。砂利道や雪上を50分以内で10キロ走破できるかどうかは本質的に重要ではなく、重要なのは、与えられた環境において自らを掌握しているという感覚なのです。適切に対応し十分に準備できているというこの感覚は、強い美的感覚を生み出し、圧倒的に鼓舞される、あるいは崇高なまでに高揚した雰囲気を創り出すことができるのです。

スポーツ経験には無数の多様性があり、それらが本質的に美的であると見なされる可能性があります。それらはいずれも強い感情と深い充足感を引き起こします。ランニングやスキーでは、その強度において強い美的経験を得られることがあります。しかし、基本的な身体的快楽と、本質的に美的と呼びたくなるような快楽を、どのように区別されるのでしょうか。
Vihalem は、ジョン・デューイの直観に従って、経験が美的性質を含むとき、質的に美的であるときに、それは美的経験となるのだとします。すると、美的快楽は本質的に複合的であり、単一の刺激に還元できないものであると考えられます。ランニングやスキーの場合、美的要素は身体感覚、環境、行動を縁取る美しい(あるいは美しくない)風景、前進するための動作などに見出すことができます。このように美的経験には複数の要素が寄与していますが、単独で見ればいずれも議論の余地なく美的とは言えないものです。しかし、それらがあわさって、美的経験であると言えるような経験を形作っているわけですね。さらに Vihalem は、想像力も作用すると指摘します。自らの能力を十分に楽しむには想像力を働かせる必要がある場合が多く、このことは、スポーツも同様です。だからこそスポーツは美的豊かさと快楽に満ちたものとなりうるのです。

Vihalemの議論は少々(場合によってはかなり)粗削りな部分も多く、論証が不十分に見えるところもありますが、そのアイデア──身体や環境との相互作用こそがスポーツの美的経験の源泉であるという説──はそれなりに魅力的に思えます。彼自身は例として、ランニングやスキーを挙げていますが、スケートボードやパルクールといった、いわゆる「ライフスタイルスポーツ」と呼ばれるような、競技志向ではないタイプのスポーツと相性の良い議論かもしれません。
参考文献
Vihalem, Margus. 2023. “From Running to Cross-Country Skiing and Beyond – Can Sport Count as a Pre-Eminently Aesthetic Activity?” Sport, Ethics and Philosophy 18 (2): 229–43. doi:10.1080/17511321.2023.2211236.
美学者とは
美学者の役割
- 【美的判断】なぜある人が「美しい」と感じる対象を、別の人は「そうでもない」と思うのか
- 【芸術作品の価値】作品が私たちの感性に与える影響を、どう評価し、言葉で説明できるか
- 【日常の美】ファッションやインテリアなど身近なところに潜む「美しさ」をどのように考えるか
こうした問いに取り組むのが美学者の役割です。近年では、ゲームの体験やデザイン、スポーツや身体表現、さらにはSNSなど、従来は「美学」とはあまり結びつかなかった分野にまでその探究範囲が広がっています。哲学や芸術学と深く関係しながら、現代社会のあらゆる「感性の問題」に光を当てるのが、美学者と呼ばれる人々なのです。

【PROFILE】
北海道帯広市出身。早稲田大学文学研究科博士後期課程在籍。専門は、ゲーム研究、美学。主な論文に、「個人的なものとしてのゲームのプレイ: 卓越的プレイ、プレイスタイル、自己実現としての遊び」『REPLAYING JAPAN 6』、「ゲームにおける自由について──行為の創造者としてのプレイヤー──」『早稲田大学大学院 文学研究科紀要 第68輯』。ゲームとファッションとタコライスが好き。






































