【連載】美学者 上野悠の「美学でひもとく世界」
スポーツにおけるとある神話

スポーツ実践コミュニティ内では、最も熟達した技術を発揮した選手が勝利しなければその試合は「失敗」であるとするような考え方が広く信じられています。例えば、サッカーで言えば、ワールドカップでのブラジルは、長い間強豪国として知られており、格下相手に負けると、その試合は「ひどい」ものとして扱われ、勝った国が単純にブラジルを上回っていたということがあまり認められない、ということがあったりします。しかしながら、こうした信念は明示的に認められることは稀です。つまり、うっすらと存在しているのではないかと思われるのです。
こうした考え方に異議を唱えるような論考を残しているひとがいます。ポール・ディヴィスは、「最も高い技術を持った選手が勝利しない試合は失敗である」という素朴な考え方に対して、様々な角度から反論し、「技術」という概念を拡張するように促しています。ただ、注意すべきは、デイヴィスの反論先は、哲学的な立場ではなく(おそらく、まともなスポーツ哲学の研究者であれば、このような立場をとる人はほとんどいません)、彼自身「イデオロギー的」と言うような、上記の立場に対して反論することで、ある種の啓蒙的な効果を狙っているのではないかと思われます。
スポーツにおける目標

スポーツ実践では、様々なレベルで「目標」が問題となりえます。第一に、スポーツの「構成的ルール」(これはバーナード・スーツの用語です)には目標が明記されており、これらはプレイと勝利に何が必要かを規定しています。例えば、サッカーの目標は相手より多くの得点を挙げることであり、得点とは、手などを使用せずにボールをゴールポストの間、バーの下に通すことを意味しています。
また、それぞれの競技者には多くの場合、私的なパフォーマンス目標があります。例えばテニス選手は、これまで一度もセットを取ったことのない相手からセットを奪うことを目標とするかもしれません(たとえ試合には勝てなくとも)。
競技そのものの「規範的目標」も存在します。これはスポーツの本質などが関係しているある種の「理想」に根差しており、ディヴィスはこの例として、「最強の者が勝つように」を挙げています。
ディヴィスは、これらの中で第三の目標、「競技目標」のなかで、広く支持される一つ、すなわち「技能」について考察しようとします。技能が競技の目標であるという主張は、最も高い技能を発揮した競技者が勝利しなければその競技は失敗であるという意味に還元できるとデイヴィスは前提しています。
目標志向型スポーツ

一方で、ディヴィスは議論の範囲を「目標指向型スポーツ」に限定されることに注意を促しています。目標指向型スポーツには、サッカー、ラグビー、テニス、陸上競技などといった大多数のスポーツが該当します。これらは達成手段とは独立して、規定された目標の存在によって定義されます。どういうことかというと、ルールにのっとっている限りは、どんな手段であっても得点したり、ゴールしたりすればよいということです。
これと対比されるのが、「美的スポーツ」とよばれるもので、これには、体操、フィギュアスケート、飛び込み、シンクロナイズドスイミングなどが該当します。これらは、目標と達成手段の区別が認められません。つまり、例えばフィギュアスケーターに対して「演技の質は重要ではない」とは言えないということです。これら美的スポーツは、パフォーマンスそのものがそのまま結果になっているのです。したがって、美的スポーツにおける勝者と最高の技量を発揮した競技者との区別は、概念的に成立し得ない(両者はイコールとなる)とデイヴィスは指摘します。

しかしながら、目標志向型スポーツにおいては、技能の低いパフォーマンスを示した者による正当な勝利(すなわち構成的規則内での勝利)は概念的に可能であり、実際に頻繁に発生する現象となっています。このことは後で詳しく説明されますが、ディヴィスは、目的志向的スポーツの技術が持つ局所的性質に少なくとも部分的に根ざしていると言います。
ディヴィスによると、技術に関するイデオロギー的な考えは、スポーツ競技において、ヒーローや悪役のようなイメージを生み出します。例えばブラジルは、最も技術的に卓越しているとの理由で、対戦する全てのサッカー試合において当然の勝者として軽々しく見なされ、一方で、その対戦相手は悪役のように配役されることがあります。技術的に劣る者の勝利はそのスポーツへの裏切りとされ、試合は失敗とされてしまうことがあるのです。
上記のような反応の一部は、その競技でのスキルレベルではなく、一般的なスキルレベルに関する理想に根ざしている可能性があることを認めるべきであるとディヴィスは言います。つまり、これは、すでに最も高いスキルを持っている者が勝たなければ、試合は失敗だという考えなのです。

ここでディヴィスはいくつかの点を指摘してします。第一に、ここでの(その試合/一般的なの)境界線は曖昧になりがちという点です。つまり、すでに最高の技能を示している者が将来の競技でも最も高い技能を発揮すると想定されてしまっている可能性があります。この前提が「最も技能のある者が正当な勝者である」という信念に不可欠であるならば、「当の競技において最も技能を発揮した者が正当な勝者である」という信念は、その前提から切り離せないということになります。
第二に、この前提を回避、または中立的立場を保ちつつ修正された前提——最も熟練した者が将来の競技でも最も熟練したパフォーマンスを発揮する可能性が高く、したがって将来の競技の大半において正当な勝者となる——を支持することは可能です。これによって、上記のような、最も熟練した者が将来の競技において先験的に正当な勝者であると断言すること(というかなり無理筋な意見)は回避できます。
しかしながら、(i)最も熟練した者が将来の競技においても最も熟練したパフォーマンスを発揮する可能性は極めて高いが、(ii)最も熟練した者であっても、将来の競技において最も熟練したパフォーマンスを発揮した際に、その一部で敗北する可能性がある、とするのは十分に考えられます。しかし、こうした試合は、「失敗」とされてしまうことがあるのです。
スポーツにおける技術とは
ディヴィスは、この、「競技の目標が技能である」という信念を評価するには、まず、スポーツ技術の概念をある程度明確にすることが不可欠であると述べ、その作業を試みます。

第一に、技能は競技的成功に還元されません。競技の勝者が最も優れた技能を発揮した競技者であるかどうかは、未解決の問題でなければならないのです。ディヴィスによると、最も技能的なパフォーマンスは勝者から生まれると規定することは、技能と他のパフォーマンス関連特性の区別を無意味に覆い隠すことになってしまうのです。
第二に、技能は勇気、決意、速度、力、パワー、運といった他のパフォーマンス関連特性とは異なるものです。ディヴィスによると、これらの特性のいかなる量や組み合わせも、「技術」を生み出しません。技術はこれらに還元されないのです。
第三に、芸術の欠如は、勇気、決意、運といった他の資質が十分に豊富に備わっていれば、時に補われることがある点です。これは、例えば、最も巧みに競技した選手が、神経の弱さや経験不足のために敗れたと言うことは、まったくもって意味不明ということにはならないということです。

最後に、技術とは動的な素質であり、事前に知り得ない状況への微細な対応を伴うものだということです。技能の低いパフォーマンスは、比較的一般的な競技状況の構成を特徴とし、比較的一般的な対応を必要とし、競技者が比較的一般的な方法でそれを行いますが、技能の高いパフォーマンスは、比較的特殊な状況の構成を特徴とし、比較的特殊な対応を必要とし、競技者が比較的特殊な方法でそれを行うものです。したがって技能は、工芸や即興といったものと、概念的な近縁関係にあるのです。
目標志向型スポーツの特徴
では対照的に、目標志向型スポーツにおいては、技能の劣るパフォーマンスが技能の優れたものを凌駕する可能性がいかにして開かれるのでしょうか。目標志向的スポーツには二つの関連する特徴があるとディヴィスは指摘します。
第一の特徴は、上述の見解の三番目に関連するもので、勇気、決意、度胸、運などといった特徴によって、より技能的に優れた対戦相手に対する勝利をもたらすことは概念的に可能であり、実際によくあることだという点です。このことは、勝者と技能的な卓越が切り離せない美的スポーツにおいては概念的に成り立たない一方で、それらが切り離される目標志向型スポーツにおいては成立することが可能です。
スキルの局所性

目的志向型スポーツの第二の特徴は、「スキルの局所性」です。これはスキルと最終目標の関係に関わります。精神力、勇気、決断力といったパフォーマンスに関連する他の資質において、対戦相手間に格差がないと仮定します。そのなかで、一方のチームが明らかに(総合的には)高いスキルを発揮すると想像しましょう。彼らはパス回しに優れ、創造性に富み、繰り返し相手守備を突破することができます。しかし、彼らには決定力が不足していたのと、相手チームの卓越したゴールキーピングが重なり、得点を奪えませでした。そして、相手チームが終了間際にカウンターを仕掛け、冷静にゴールを決めて試合を制します。
ここでは、より技術的な選手(を多く持つチーム)が試合に敗れた原因は精神力の弱さではありません。彼らの敗因は、他のパフォーマンス関連要素に差がない場合でも、目標志向のスポーツにおいて優れた競技スキルが勝利を保証しないという事実に根ざしているのです。

ディヴィスは、このケースの敗者たちが実際により高い技術を発揮していた点を強調します。得点力は単なる一つのスキル(またはスキル群)に過ぎず、その実行が劣ったからといって総合的な技術水準が低いわけではありません。また、例えば、守備を分断するパスとその後のクロスが優れたものかどうかは、得点につながるシュートやヘディングが続くか否かによって決まるものではないし、ストライカーがヘディングで決めるか失敗するかを見届けてから、そのパスやクロスが良かったかを判断するわけではありません。そうしたプレイは、結果に最終的な結果にかかわらず、それ自体で優れたプレイなのです。逆に言えば、優れたプレイを発揮しても、結果につながらないということは十分に考えられます。
つまり、あるチームが技術の遂行において他チームを凌駕しながらも、ごく限られた範囲の技術の実行が不十分だったために試合に敗れることがあるのです(当たり前のことですが)。数々の素晴らしいパス、クロス、ドリブル、タックルは、最終的に結果とは無関係かもしれないのです。これは、試合の中で起こるすべてのことが結果に関連するという美的スポーツとは対照的といえるでしょう。つまり、美的スポーツと比べたときに、目標志向型スポーツの場合は、技術だけがすべてと言えるような状況ではないということです。
能力の拡張へ

こうした事象は、我々が抱くべきスポーツ競技の規範的理想と矛盾してしまうのでしょうか。ディヴィスは、そのような結論は疑わしいと述べています。
技能こそが競技の目的だという主張は一見魅力的に映るかもしれませんが、深く考察すれば説得力に欠けるとディヴィスは言います。例えば、より勤勉さや粘り強さによって、技術的に劣る競技者が勝利した場合、なぜ我々は憤るべきなのか、経験と冷静な神経が、より技術的に優れた対戦相手を打ち負かした場合、なぜ憤るべきなのか、より狭い技術範囲が広い範囲を凌駕した場合、なぜ憤るべきなのか。こうした反応の根拠を正当に見出せるかは明らかではないとディヴィスは主張します。
反対に、ディヴィスは、我々が求めるのは、技能以外の資質が、より高い技能を発揮する対戦相手よりも優れた実現を可能とする余地を認めることが可能になるほど、能力概念を十分に寛容にすることであると主張します。
スポーツと芸術の関係
技術はスポーツにおける一つの目標ではあるが、上述の意味において競技の目的そのものと見なされるべきではないとディヴィスは結論付けましたが、では、なぜこのイデオロギー的立場はこれほど支持されるのでしょうか。ディヴィスは、おそらく第一に、スポーツの美的地位に関する根深いこだわりと関連していると言います。
ディヴィスが言うには、スポーツは芸術か否かという議論は古くから、著名な論客が関わってきました。続いて彼は、おそらくその中の一部の人々は、スポーツが芸術である場合にのみその精神的尊厳が保証され、さらにその保証は技能こそがスポーツの善の形態である場合にのみ成立すると感じているのだろうと指摘します。

しかしこれは見当違いであり、第一に、この見解は芸術に対する疑わしい還元主義を必要とし、それは芸術を著しく貧弱なものにしているのだと批判します。芸術が美しさ、優雅さ、洗練さといった(限られた)美的性質によってのみ定義されることは自明ではありません。したがって、スポーツを芸術形式として位置付けようとするこの試みは、おそらく芸術とスポーツ双方の貧困化につながってしまうのです。
第二に、美的(aesthetic)と芸術的(artistic)は同一ではなく、芸術でなくとも美的に卓越したものは存在する点です。夕焼けはその典型例であり、おそらくスポーツもまた同様であると考えられます。
第三に、スポーツが芸術でないからといってその価値が劣るという主張は自明ではないという点です。スポーツには独自の豊かで多様な価値と意味が存在し、豊富な技能と美的性質が備わっています。これらは、どちらも「スポーツは芸術ではない」という見解が伴う可能性(すなわち、技能の劣る者の勝利が規範的に正当化されること)によって脅かされることはないのです。
ディヴィスは、最も巧みに競技した選手が勝利しなくても、スポーツ競技が失敗とは言えないと論じてきました。彼は、技能に対するより寛容な認識が現状よりも包括的な評価を生むこと、そしてその結果として、(寛容な認識なもとであれば)最も技能的に優れた競技者勝利するということがより頻繁に成立することになるということを例を挙げて説明します。

ディヴィスは、例として、1986年ワールドカップ準決勝における西ドイツ対フランスの試合を挙げます。フランスは明らかに非常に技術の高いチームであり、ブラジルが敗退したことで大会の正当な優勝候補として認識されていました。その試合で、西ドイツは開始8分で先制点を挙げ、その後80分間にわたり驚異的な巧みさで守備を続け、疲労困憊した相手に対して見事なカウンター攻撃で試合を決めた。ディヴィスによると、この結果は当時も、そして今もなお、残念な試合、サッカーへの裏切りの試合として報じられてきました。しかし、ディヴィスは、西ドイツは、自分たちが早い時間帯に得点するとは予想していなかったが、その事実に対して戦略的知性をもって対応し、優れた相手に対して驚くべき実行力を示したとして、その技術レベルを高く評価すべきだったと言います。
ディヴィスは、自身が提唱する技術の自由化により、1986年の西ドイツ対フランス戦のような試合とそのパフォーマンスが、十分に技巧的で美的なパフォーマンスの一つであったという認識が広く受け入れられる結果をもたらすのではないかと期待しています。

今回紹介したディヴィスの論は、どちらかと言えば、スポーツ哲学の枠組みのなかで議論を進めるというより、一般に膾炙してしまっている規範的(だが不合理な)認識に対して、見解を改めるよう警鐘を鳴らすものです。なぜ、「より技術的に高いほうが勝利すべき」という見解が否定されるべきなのかについてはもう少し論証が欲しいところでしたが、おそらくディヴィスは「運勝ち」や「塩試合」と呼ばれてしまうような試合をもう少し評価すべきであると考えているのでしょう。
私自身が着目したいのは、議論の大筋というよりは、彼が目標志向型スポーツの「技術の局所性」に触れている点です。この点についてより哲学的に洗練させていけば「目標志向型スポーツ」一般の(美的)特徴づけとして、かなり有力なものを作れるのではないかと期待しています。
参考文献
Davis, Paul. 2007. “A Consideration of the Normative Status of Skill in the Purposive Sports.” Sport, Ethics and Philosophy 1 (1): 22–32. doi:10.1080/17511320601142969.
美学者とは
美学者の役割
- 【美的判断】なぜある人が「美しい」と感じる対象を、別の人は「そうでもない」と思うのか
- 【芸術作品の価値】作品が私たちの感性に与える影響を、どう評価し、言葉で説明できるか
- 【日常の美】ファッションやインテリアなど身近なところに潜む「美しさ」をどのように考えるか
こうした問いに取り組むのが美学者の役割です。近年では、ゲームの体験やデザイン、スポーツや身体表現、さらにはSNSなど、従来は「美学」とはあまり結びつかなかった分野にまでその探究範囲が広がっています。哲学や芸術学と深く関係しながら、現代社会のあらゆる「感性の問題」に光を当てるのが、美学者と呼ばれる人々なのです。

【PROFILE】
北海道帯広市出身。早稲田大学文学研究科博士後期課程在籍。専門は、ゲーム研究、美学。主な論文に、「個人的なものとしてのゲームのプレイ: 卓越的プレイ、プレイスタイル、自己実現としての遊び」『REPLAYING JAPAN 6』、「ゲームにおける自由について──行為の創造者としてのプレイヤー──」『早稲田大学大学院 文学研究科紀要 第68輯』。ゲームとファッションとタコライスが好き。







































