【連載】美学者 上野悠の「美学でひもとく世界」
美的理由

「〇〇という映画は傑作だ」という発言に対して、その「理由」を訪ねたとき、「だって××という有名な評論家が傑作だと言っていたから」、と帰ってきたら、あなたはどう思いますか。多くの人はきっと、「いや聞きたいのはそういうことじゃないんだよな…」と思うのではないでしょうか。ゴロデイスキーとマーカスは、そんな直観に対応した、美的理由や美的判断のモデルを提案しています。
彼女らがまず立脚するのは、行動や信念において、それらを行ったり信じたりする「理由」は、規範的かつ説明的な目的の両方に役立つものである、ということです。つまり、われわれは、「なぜそれをするのか」または「なぜそう思うのか」というようなことを聞かれたときに、命題を信じる根拠(あるいは行為を行う根拠)と、あなたがそれを信じるに至った(あるいは行為するに至った)理由の二つに解答できるような答えでなくてはならないのです。
このことが美的理由にも言えます。彼女らによると、美的判断とは、単に「たまたま好まれたもの」ではなく、「好むに値するもの」の問題なのであり、単純な主観的快楽の問題とも異なります。では、「〇〇という映画は傑作だ」という発言の答えになるような、美的理由とはどのようなものなのでしょうか。

対象を美的に判断するには、あなたの好みが、その対象を好むに値するようにしていると思われる特徴、つまりそれが評価されるべき理由を説明する特徴によって説明されなければなりません。ゴロデイスキーとマーカスは、こうしたものが「美的理由」だと言います。 美的判断が美的に正当化されるということは、その好みが実際に、好むに値する対象がもつ特定の特徴によって説明されるということです。したがって、美的な「なぜ」の問いもまた、あなたが対象を好むに至った理由と、それが好むに値する理由を同時に示す答えを要求しているのです。
しかしながら、美的理由は信じる理由や行動する理由とは本質的に異なる点もあります。それは、(信念や行為の理由に対して)美的理由の中核的な特徴は、それが特定の感情を抱く理由であるということです。そしてこれらの理由に反応すること自体が、特定の情動状態にあることを意味しています。彼女らによると、特定の命題を信じること(対象が特定の感情に値するという命題でさえも)も、対象に関して何かを行うことも、美的理由としての美的理由への反応とはみなされません。よって、美的判断とは、対象に対する肯定的な感情的態度、つまり好感なのです。
美的判断の主観的側面と客観的側面の緊張

ゴロデイスキーとマーカスは、自分たちの見解が、美的判断における主観的側面と客観的側面の間に見られる緊張関係を解決する説得力ある方法としても有力であると主張します。
この緊張は次のように説明されています。一方では、美的判断を、判断者自身の対象物に対する経験の問題と捉えることで、すんなりと説明ができるような現象が存在し、他方では、美的判断は、ある判断が他の判断よりも、その対象物に適合する可能性を許容するという意味で、その対象物に関してのものであると主張されます。ちょっと難しい説明ですが、このことは、ゴロデイスキーとマーカスが挙げている、以下のような一見矛盾した原則を念頭に入れることで、少しわかりやすくなるのではないかと思います。
疑念(doubt):ある専門家による美的判断についてそれ以外の人々全員が異議を唱えているという事実のみに基づいて、ある人が自らの美的判断に対して疑念を抱くことは正当化されうる。
(後半の疑念のほうはまどろこっしい言い方をしていますが、権威づけられた意見によって、自らの美的判断の正当性が揺らぐことがある、位に考えてもらって結構です)
ゴロデイスキーとマーカスは、この自律性と疑念の双方の正当性を十分に説明できないことを示すことで、様々な立場が美的判断の主観的次元と客観的次元の適切な均衡を欠いていることを論じ、自らの論の強みを提示しようというわけです。
相対主義

彼らはまず、相対主義と呼ばれる立場について検討します。相対主義とは、「美的判断は真実を捉えるものであるが、その真実は発言者の感性に相対的である」とする見解で、おおまかにいうと「趣味判断は人それぞれ」的立場です。
この立場によると、反対の意見も専門家による根拠づけもそれ自体では、自らの考えを変える理由にはなりえません。なぜなら他者の判断は彼らの感受性に対して相対的なものであり、自らの判断は別の感受性に対して相対的なものであるかもしれないのであり、したがって全員が正しい可能性があるからです。このようにして「自律性」の部分は説明されます。
しかし、相対主義では「疑念」のほうは解決されません。なぜなら、もし他社の意見や判断が自らの考えを変える理由を提供しないのなら、疑念を抱く理由も提供しないように思われるからです。これに対して、相対主義側は、疑うことは判断することより容易だという観察を通じて、この難題を回避しようとするかもしれないと説明されますが、それでもやはり、この立場ではこの矛盾を説明できないと、ゴロデイスキーとマーカスは結論付けます。
表現主義

つづいて、表現主義と呼ばれる立場についてです。この立場は、自律性については、この場合の美的判断は単に対象が自分を喜ばせるかどうかを反映したものであり、対象が特定の美的性質を持つ、という信念を反映したものではない、と主張するかもしれないと説明されます。
この立場によると、「〇〇という映画は傑作だ」といった発言は、映画に対する肯定的な美的感情を表明するものであり、命題への信念ではありません。したがって、ほとんど全員が反対しているという事実も、専門家が反対の評決を証言しているという事実も、「わたし」の考えを変える正しい根拠を提供することはできないということになります。
しかし表現主義者は疑念に直面してしまいます。伝統的な表現主義によれば、美的なものに対する言明は「規範」的言明であり、「美的意見の相違」という問題は特定の対象に対する論理的に矛盾した「記述」の問題ではないことになります。しかし、もし反対意見や専門家の証言が自らの判断を疑う根拠となるならば、それは一方の正しさが他方の正しさを排除するからに他なりません。判断は他者の正しさを犠牲にして下されるのであり、この問題において重要なのは、この説明には意見の相違の説明以上のものが必要だということです。
美的判断と美的信念の区別

しかし、ゴロデイスキーとマーカスは、この問題にもかかわらず、表現主義的立場をとろうとします。彼らは、自律性に関する感情に基づく表現主義的説明と、美的規範性と美的意見の相違の特質に配慮した疑いの解釈とは、組み合わせることが可能だと言うのです。
彼らは、美的判断と美的信念を区別することでこの問題を回避しようとします。 彼らによると、コンセンサスや証言に基づいて対象が美しいと正当に信じることに、克服不可能な障害は存在しません。しかし、そのような信念は美的判断でもなければ、美的判断の適切な根拠でもないのです。
上述の問題に対する彼らの解決策によれば、自律性と疑いは両立させることができると言います。というのも、自律性は美的判断に直接関係する一方で、疑念は美的内容を持つ信念を介して間接的に美的判断に関係する、ということになるからです。
彼らは、美的判断における意見の転換は二つの方法で理解できると主張します。それは、美的判断(美的感覚によって構成される)の変化として、あるいは理論的判断(対象の美的特性に関する信念によって構成される)の変化としてです。 自律性は前者に適用されますが後者には適用されません。対象の美しさに関する言明は、時に一方の種類の判断を、時に他方の種類の判断を表現しているのです。
彼らは「〇〇は美しい」という言明が、独特の種類の快楽を表現する場合にのみ美的判断を表現していると考えます。しかし、この考えは、「『O は美しい』という形式の主張が、実際には 2 つのまったく異なる意味論的タイプに分けられると考える根拠は何か」と問いかけに直面します。この問題に答えるため、彼らは何人かで集まって、よかった映画リストを投票する、「ベスト10映画」ゲーム、という事例を引き合いに出します。

例えば、参加者がある投票を擁護して、「××は素晴らしい映画だ」と発言した場合、私たちはこれを美的判断の表明と受け取ります。そう解釈する以上、それは自律的なものと理解されます。しかし、これを、美的判断ではなく美的信念を表明していることを示す方法は複数存在することがありえます。 例えば「××は良作に違いない/良作であるに違いない/間違いなく良作だ/確かに良作だ/何と言っても君のリストに入っているんだから」と言うかもしれません。 ここでは、ある映画が優れているという命題に対する態度を表明していますが、同時に表明された他律性は、この発言を欠陥のあるものにはしていません。この発言を、映画を自分のリストに加えることの正当化―つまり、自身の美的判断の正当化―として提示しない限りは、このことに誰も異議を唱えることはないでしょう。
さらに彼らは、他者の根拠づけや証言がある意味で美的判断に影響を及ぼすという事実を取り上げます。もし〇〇という映画に対してだれかが、「大した映画じゃない」と発言したけれども、この映画がその人が最も信頼する批評家たちの熱狂的な一致した高評価を耳にした場合、その人が疑うのは単なる命題への肯定的態度ではなく、その映画に対する自分自身の美的判断が正しいかどうかであると考えられます。結果として、その人はその映画を再鑑賞し、他者の評価に導かれてその良さを理解しようと努力するかもしれません。このようにして、美的信念と美的判断が食い違う場合、美的判断のほうを疑う理由が生まれうるのです。
参考文献
Gorodeisky, Keren & Marcus, Eric (2018). Aesthetic Rationality. Journal of Philosophy 115 (3):113-140.
美学者とは
美学者の役割
- 【美的判断】なぜある人が「美しい」と感じる対象を、別の人は「そうでもない」と思うのか
- 【芸術作品の価値】作品が私たちの感性に与える影響を、どう評価し、言葉で説明できるか
- 【日常の美】ファッションやインテリアなど身近なところに潜む「美しさ」をどのように考えるか
こうした問いに取り組むのが美学者の役割です。近年では、ゲームの体験やデザイン、スポーツや身体表現、さらにはSNSなど、従来は「美学」とはあまり結びつかなかった分野にまでその探究範囲が広がっています。哲学や芸術学と深く関係しながら、現代社会のあらゆる「感性の問題」に光を当てるのが、美学者と呼ばれる人々なのです。

【PROFILE】
北海道帯広市出身。早稲田大学文学研究科博士後期課程在籍。専門は、ゲーム研究、美学。主な論文に、「個人的なものとしてのゲームのプレイ: 卓越的プレイ、プレイスタイル、自己実現としての遊び」『REPLAYING JAPAN 6』、「ゲームにおける自由について──行為の創造者としてのプレイヤー──」『早稲田大学大学院 文学研究科紀要 第68輯』。ゲームとファッションとタコライスが好き。









































