【連載】美学者 上野悠の「美学でひもとく世界」
美学におけるユーモア
ここ最近の美学分野では、芸術作品とその鑑賞という、長らく主題となっていた組み合わせを離れ、より日常的なものに焦点を当てたり、鑑賞以外の美的なかかわりに目を向けたりするのがひとつの大きな潮流となっています。

日常にある美的なものの一つに「ユーモア」があります。直観的に、我々は、人に笑わせるときや笑わせられるときに、感性を発揮させていることは自明なことのように思えます。例えば、下手なジョークを浴びせられたときに、われわれはそのジョークそのものや、その発言者について「センスがない」という判断を下すでしょう。しかしながら、ユーモアについての美学的な議論は、(少なくとも、ほかのトピックと相対して)実はまだあまり蓄積されていません。
今回は、ユーモアを美的なものとして取り上げて議論の対象としている数少ない研究の一つをご紹介いたします。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン の研究者、ゾーイ・ウォーカーは、「差別的なジョーク」という事例を取り上げながら、ユーモアについての興味深い知見を提供してくれています。
ユーモアの倫理
ウォーカーによると、ユーモアの倫理に関する近年の議論では、ユーモアのセンス自体が美徳(あるいは悪徳)となり得るという考えが、二つの方向から異議を唱えられています。
一方では、ある人のユーモアのセンスが持つ道徳的地位は、その人の持つ信念の道徳的地位に完全に依存しているとする立場があります。つまり、道徳的に悪いユーモアのセンスを持つことは可能だが、その根底にあるのは悪い信念を持っているということになります。
しかし、もう一方では、ユーモアのセンス自体には、道徳的意義はないとする見解もあります。つまり、特定の種類のものをおもしろいと感じる傾向は、それ自体では道徳的に悪いとは言えず、私たちが何をおもしろいと感じているかということはも、私たちの人格については何も明らかにしないのです。
ウォーカーは、ユーモアの感覚に関するアリストテレス的な見解を参照することで、これら二つの立場の間を模索することを試みます。上述した二つの現代的立場を検討し、両者とも何かを正しく捉えている一方で、ユーモア感覚の重要な特徴を見落としていると言います。特に、不道徳なユーモア作品からしばしば得られる、不本意な共犯感と彼女が呼ぶものを、いずれの立場も捉えきれていないと主張しています。
信念への依存説
まず、個人のユーモアのセンスの(道徳的)悪さは、その信念の悪さに依存しているとする見解を検討します。この見解によれば、道徳的に問題のある前提を持つジョークは不道徳であり、そのようなジョークを面白いと感じるには、その前提を信じている必要があるのです。

しかし、ウォーカーはこの考え方に異議を唱えます。彼女は、道徳的に同意できないジョークに笑ってしまう現象は、広く見られるものであるということを指摘します。私たちはジョークを楽しみ、その後、そのジョークが道徳的に問題があると気づき、その楽しみを後悔する、ということがありうるのです。
彼女は、不道徳なジョークを聞いた際に生じる感情を「不本意な共犯感」と呼びます。ウォーカーはこの感情を、不道徳なユーモアと向き合う上で極めて核心的な現象であり、ユーモアのセンスの倫理学を適切に説明する理論が捉えるべき要素であるとします。信念への依存による説明では、この「共犯性」については説明できますが、なぜそれが不本意なものなのかについては説明できないのです。
道徳的切り離し
もう一方の見解はどうでしょうか。つまり、個人のユーモアのセンスは道徳的信念を反映しない。したがって、ユーモアのセンスに問題があるとすれば、それは不道徳な信念を露呈する点ではない、とする見解です。
ウォーカーは、この見解が信念から距離を置く点には同意しますが、ユーモアの感覚がその人の人格を全く反映せず、したがってユーモアそのものの中には不道徳さを見いだすことはできないという結論には同意しません。この見解では、そのユーモアを面白くしているのは、その人物の性格(信念/態度/動機)の不道徳な部分である、という意味での不道徳さをとらえられません。つまり、こちらの見解では「共犯性」を捉えられないのです。
ウォーカーは、この問題を解決するには、次のようなことが必要であると言います。つまり、「センス」という語を真剣に受け止め、ユーモアを「趣味」の問題として扱うということです。彼女は、ユーモアを認知的側面だけでなく、感情的・動機的・知覚的側面を含む感性の問題として捉えるべきだと提案します。
ユーモアのセンスと性的趣味の類比
ウォーカーはここで、ユーモアの感性的側面について検討するために、A. W. イートン による「性的趣味」についての論を参照します。イートンにとって趣味とは、「ある対象xに対する評価的感情に関する個人または集団の恒常的な傾向性であり、これらの感情はxの特性に対する快または不快の反応によって部分的または完全に構成されるか、それに基づく」というものです。ここでいう「感情」とは「感情や感覚、快楽といった心的状態」を指し、対象への明示的な評価を伴う必要はなく、「対象を価値あるものとして提示し、それゆえに経験・所有・保存に値するものと見なす」ものです。例えば、靴に対する嗜好を持つ場合、それは靴を見たり履いたりする際に快楽や喜びを経験する傾向を意味し、したがって靴を経験し、所有し、維持するに値するものとして知覚しているということを示しています。

ウォーカーは、このような趣味の定式化を経たうえで、イートンの主張は次のようにまとめられると言います。
分析的フェミニズムは、性差別を維持する上での信念の役割を過大評価し、趣味の役割を過小評価してきた。特にポルノグラフィーが性差別を維持する重要なやり方は、家父長制の規範をエロティックにすることで、たとえ私たちがそれらの規範が間違っていると信じているとしても、それらを魅力的に感じさせることである。
ウォーカーは、こうしたイートンの「趣味の重要性」に関する主張に同意し、これをユーモアの領域に適用しようとします。イートンの趣味に関する説明をユーモアのセンスに応用すると、ユーモアのセンスとは、特定の物事または物事の種類であるxに対する評価的感情としての「面白さ」を恒常的に備えた傾向性であるということになります。ここでの「面白さ」は、xの持つ特定の性質に対する快楽的反応によって構成されるか、それに基づいています。この快楽的感情は明示的な評価を伴う必要なく——「これは面白い」という明示的判断を伴わずに快楽を感じられる——、対象を価値あるものとして提示し、ゆえに経験・保持・維持に値するものと見なします。この観点では、例えばダジャレへの趣味とは、ダジャレに対して快楽的感情を感じる傾向であり、ダジャレが快楽をもたらす傾向ゆえに、それを価値ある経験として見なす傾向である、ということになります。

ここで注目すべきは、他の種類の趣味と比較した際に、性的趣味と「喜劇的趣味」と呼べるものとの間に興味深い類似性が存在することです。何かを「面白い」と感じる場合も、何かを「セクシーである」と感じる場合も、そこには特別に快楽的な報酬が待ち受けており、したがって、こうした経験をもたらす傾向にあるものは、私たちにとって特に価値があるということになります。
ウォーカーは、このようなイートン流のユーモアの趣味に関する説明は、ユーモアのセンスに関する日常的な話とよく合致すると主張します。例えば、異なる文化にはそれぞれ独特のユーモアのセンスがあるという一般的な認識とよく合致します。異国へ赴いた人が、現地のコメディのどこが面白いのか理解できず、逆に自分の国のジョークをカマしても全くウケないというカルチャーショックが経験される、ということはよくいわれていることです。
ユーモラスな事柄を区別する要素
では、ユーモラスな事柄を、そうではない他の事柄と区別する要素とはなんでしょうか。ウォーカーによると、答えは単純に、それらを面白いと感じる人々が、他の事例ではなくそれらに対して「ユーモアの趣味」を持っていることだと考えます。それらを結びつける本質的な類似性は存在しません。実際、面白いと感じるかどうかは人によって異なり、本質的な共通点を見出すのは極めて困難です。
ウォーカーは、これまでの理論が、感情的・知覚的・動機的側面を備え、充実したユーモアセンスの理論であると主張します。なによりこの理論は「道徳的信念と矛盾する事柄に面白さを感じる」という考えを正当化することができます。なぜなら、何かを好むことは、それについて明示的な判断を下したり特定の信念を持つことを必ずしも伴わないからです。性差別的なジョークを好む(面白いと感じる)ことは、その性差別的な前提を信じることを意味しません。他方で、ユーモアの感覚が信念を反映すると考えられることの理由も説明できます。なぜなら、ジョークの趣味が道徳的信念と一致する可能性があるからです。

ウォーカーによると、信念依存説が正しく、信念分離説が誤っている点とは、ユーモアのセンスが確かにその人の人格の何らかを反映しているという事実です。例えば、性差別的ユーモアを楽しむとは、それを知覚した際に快楽を経験する恒常的な傾向を持ち、そのユーモアをその娯楽に値し経験する価値があると見なすことです。それはつまり、たとえ、そのユーモアが道徳的に悪いと信じている場合でも、趣味がそのユーモアを適切であると見なすことなのです。
ウォーカーによると、決定的に重要なのは、この快楽への傾向性と適切性の認識が主観的である点です。性差別的ユーモアが面白いのかどうかは客観的事実ではなく、それを面白いと感じるその人自身の特異な傾向性を露呈させるのです。
結果として、ウォーカーによれば、性差別的なジョークを常に面白みのあるものと見なす傾向には、道徳的に問題があると考えられます。これは、そのジョークやそれを楽しむ行為が、差別を受けている人々に対して「実際に」悪影響を及ぼすかどうかは関係ありません。というのも、特定の種類のジョークを面白いと感じる傾向を持つということは、そのジョークに対して嫌悪や退屈といった否定的な感情で反応する傾向を持たないことなのです。したがって、セ差別的なジョークに対する喜劇的趣味とは、そのジョークで使われているような差別的な点を否定的な反応に値するものとして見なさない傾向であり、この傾向こそが道徳的に問題があるものとしてみなされるのです。
参考文献
Walker, Zoe. 2024. “A Sensibility of Humour.” The British Journal of Aesthetics, Volume 64, Issue 1, January 2024, 1–16. https://doi.org/10.1093/aesthj/ayad020
美学者とは
美学者の役割
- 【美的判断】なぜある人が「美しい」と感じる対象を、別の人は「そうでもない」と思うのか
- 【芸術作品の価値】作品が私たちの感性に与える影響を、どう評価し、言葉で説明できるか
- 【日常の美】ファッションやインテリアなど身近なところに潜む「美しさ」をどのように考えるか
こうした問いに取り組むのが美学者の役割です。近年では、ゲームの体験やデザイン、スポーツや身体表現、さらにはSNSなど、従来は「美学」とはあまり結びつかなかった分野にまでその探究範囲が広がっています。哲学や芸術学と深く関係しながら、現代社会のあらゆる「感性の問題」に光を当てるのが、美学者と呼ばれる人々なのです。

【PROFILE】
北海道帯広市出身。早稲田大学文学研究科博士後期課程在籍。専門は、ゲーム研究、美学。主な論文に、「個人的なものとしてのゲームのプレイ: 卓越的プレイ、プレイスタイル、自己実現としての遊び」『REPLAYING JAPAN 6』、「ゲームにおける自由について──行為の創造者としてのプレイヤー──」『早稲田大学大学院 文学研究科紀要 第68輯』。ゲームとファッションとタコライスが好き。












































