【連載】美学者 上野悠の「美学でひもとく世界」
美的性質は「見る」ことができるのか

私たちは芸術作品やその他、われわれの感性に訴えるような様々なものを見るとき、それらに対して、「優雅だ」「陰鬱だ」「美しい」「醜い」といった美的概念を当てはめて、ある種の判断を下します。では、わたしたちはそのとき、「優雅」のような美的性質を実際に「見て」いるのでしょうか。
おそらく多くの美学者たちが、そのことが可能であると考えているように思われます。しかし、この点に関して、哲学者のグレゴリー・カリーは、その答えは全く明確でなく、また、一人称的な検証によってこの問題が解決されるという考えに疑問を呈しています。
美的視覚
カリーは「美的性質は視覚によって認識可能かどうか」という問題に的を絞って議論を繰り広げます。彼は、この、美的性質が視覚的経験において提示される性質の一つであるという考えを「美的視覚 (AS)」と呼ぶことにします。
なぜ我々はASを受け入れるべきなのか、そもそも、それを否定する根拠は何だろうか。結論から言うと、カリーは、こうした問題については、 現在の知識水準では、解決する明確な方法はないとし、解決の最も有望な道は、視覚科学の研究を通じて得られるだろうと考えます。

そのように前置きしたうえで、カリーはなぜそのように考えられるかについて議論を進めていきます。彼がまず言及するのは、「低次の」性質と「高次の」性質という区別です。カリーが言うには、低次性質とは、視覚的に認識可能と一般に認められているもの、すなわち色彩、質感、空間関係、形状、輝度、運動といったものです。一方で、視覚的に提示される可能性があるような、その他の特性は高次特性に分類されます。この区別方法によれば、美的性質は高次性質となります。つまり、美的性質とは、社会的・評価的・生物学的など広範な他の性質と同様に、感覚器官によって議論の余地なく認識可能であるとは言い難い性質なのです。
さらにカリーは問題を整理します。カリーが言うには、目下の問題は、「視覚において与えられるような美的性質が存在するかどうか」ではありません。そのようなものは存在するのは明らかだからです(例えば「青さ」などは感覚的な性質ですが、美的帰属の対象ともなりえます)。
真に問うべきは、「視覚的な美的性質の例として頻繁に挙げられるような性質が、実際に視覚的であるかどうか」なのです。こうした性質の例として、カリーは「美、優雅さ、鮮やかさ、派手さ、俗っぽさ、キッチュ、静謐さ、統一性」を挙げています。彼が問題にしているのはまさしくこの種の性質であり、それらが視覚に与えられるかどうかは未解決の問題であると指摘しているのです。
さらに注意すべきなのは、これらのうちのいずれかが視覚的に与えられるという主張が、自動的に他の性質も視覚に与えられるという主張になるわけではないという点です。とはいえ、例えば「鮮やかさ」のような性質が視覚的に認識されると判明した場合、「派手さ」などのような性質も同様に認識される可能性が高いと感じられるかもしれません。しかしながらそれは、必然的な関係ではなく、確率的な関連性にすぎないのです。
「見た目」では決まらない

私たちが物事の低次性質以上のものを見ているかという問いは、近年の哲学において膨大な時間と労力を費やしてきてきました。このことは「私たちが何を見ているか」は経験のみに基づいて決着をつけることができないことを示す一端となっています。
しかしこの議論において、経験の現象学への訴えが無視されてきたわけではありません。スザンナ・シーゲル(2011, 特に第3章と第4章)は、「松の木」のような種類の認識を学ぶことが視覚的知覚の現象学を変えることを論じています。しかし、カリーは、他の研究者が指摘するように、こうした事例で現象学的変化を認識できても、それが高次レベルでの表象的変化なのか、低次レベルにおける注意の仕方などの変化に過ぎないかは、経験によってはわからないと指摘します。
カリーによると、シーゲルの松の木事例やその他多くの類似例は、知覚学習と呼ばれる枠組みで説明することができます。知覚学習とは、経験が時間をかけて、以前は区別できなかったものを見分けることを教えてくれる、というものです。これに関して、一つの見解としては、知覚学習が私たちをものの「見た目(look)」——区別を学んだ対象(例えば松の木)に典型的に結びつく、複雑で抽象的かつ、様々に例化可能な、色と形の組み合わせ——に対して視覚的に敏感にするのだとしています。
この「見た目」という概念を広く解釈すれば、議論の枠組みが変わるのだという主張がなされています。それによると、美的性質(視覚的性質)自体が「見た目」であり、優雅な絵画とは特定の視覚的外観を呈するものであり、優雅な絵画に共通するのはまさにその抽象的に捉えられた外観であるとされるのです。

しかし、カリーはこの見解に対して二つの異議を唱えます。一つは、美的性質が低次特徴に付随する(supervene)ことを要求する点です。彼は、対象が美的性質を持つことが文脈的性質の有無に依存する場合、美的性質はそのような「見た目」と同一視できないことを指摘します。なぜなら、「見た目」は同じものを有しながら「性質」は有さない事例が可能であるため、せいぜい両者は共延的(co-extensive)であるに過ぎないと言えるからです。付随説を受け入れると、例えば、同じ低次特徴(特に色や形)を持つ二つの作品が必然的に同じ美的性質を持つことになり、その結果、オリジナル作品とその完全な複製が美的に区別不能になってしまいます。
第二の懸念は、付随問題とは別に、多くの美的性質が「見た目」であるとは考えにくい点です。カリーは、例えば、動的であること、無機質であること、陰鬱であること、などといった性質の帰属が、対象となる絵画が特定の「見た目」を体現しているという事実だけで正しいとは考えにくいということを指摘しています。いかなる様式やジャンル、時代や場所の絵画も「陰鬱」であると言える可能性があるのです。絵画を「陰鬱」と呼ぶ行為は、確かに鑑賞者に反応を引き起こすが、それは視覚的に利用可能な手がかりによって部分的に促される一方で、鑑賞者自身の感情的・身体的反応によって大きく形成されるものなのです。このように、美的性質の視覚性を主張する一般的な議論が、「見た目」の概念を用いて展開できるとは考えにくいと、カリーは結論付けます。
取り得るべきアプローチ

視覚的知覚の現象学が問題解決に寄与し得るかについて、カリーは懐疑的な立場をとっています。カリーは、知覚(特に視覚)に関する実験的・臨床的・体系的研究から証拠を探ることを提案しています。これは、科学的データのみに依拠して問題を解決せよと言っているわけではありません。彼が主張したいのは、あくまで、この問いに答えるにはデータが必要だということです。カリーは一部の哲学者たちによる、そうしたデータの蓄積を応用した研究を引用し、問いに対するアプローチの仕方を提示します。
カリーによると、そうした研究の中で、おそらく最も影響力があるのは、 Burr and Ross 2008を引用した、 ネッド・ブロック(2023)の主張です。ブロックは、適応——ある効果へさらされることが逆の効果を誘発する現象——が知覚的表象の重要な指標だと指摘します。彼は「多数の物体を含む場面を見ると、それより物体の少ない刺激は実際より少ない物体数に見える」という、数にまつわる知覚的表象をその証拠にのひとつとして挙げています。
カリーによると、こうしたアプローチは価値あるものである一方で、これまで美的性質への体系的な適用は行われていませんでした。また、彼が挙げた多くの研究手法は美的ケースへの適用が容易ではありません。
では、芸術哲学者や美学者は、経験的研究が決定的な答えを出すまで、美的視覚の問題について中立的な立場を取るべきなのでしょうか。この問いに関しては、カリーの答えは「ノー」です。彼が言うには、この問題が美学研究にとって真に重要だと感じるなら、科学的議論を追跡し、証拠の強さや方向性が変化するにつれて意見を調整すればよいのです。しかし、いずれの証拠も弱い現状では、美的視覚またはその否定を前提とするような論争的な命題を主張することは賢明ではありません。いかなる場合でも、知覚と美的領域の関連性についての考察を放棄すべきではないのです。
参考文献
Gregory Currie. 2025. “Do We See Aesthetic Properties?” The Journal of Aesthetics and Art Criticism, Volume 83, Issue 4. 310–317. https://doi.org/10.1093/jaac/kpaf045
美学者とは
美学者の役割
- 【美的判断】なぜある人が「美しい」と感じる対象を、別の人は「そうでもない」と思うのか
- 【芸術作品の価値】作品が私たちの感性に与える影響を、どう評価し、言葉で説明できるか
- 【日常の美】ファッションやインテリアなど身近なところに潜む「美しさ」をどのように考えるか
こうした問いに取り組むのが美学者の役割です。近年では、ゲームの体験やデザイン、スポーツや身体表現、さらにはSNSなど、従来は「美学」とはあまり結びつかなかった分野にまでその探究範囲が広がっています。哲学や芸術学と深く関係しながら、現代社会のあらゆる「感性の問題」に光を当てるのが、美学者と呼ばれる人々なのです。

【PROFILE】
北海道帯広市出身。早稲田大学文学研究科博士後期課程在籍。専門は、ゲーム研究、美学。主な論文に、「個人的なものとしてのゲームのプレイ: 卓越的プレイ、プレイスタイル、自己実現としての遊び」『REPLAYING JAPAN 6』、「ゲームにおける自由について──行為の創造者としてのプレイヤー──」『早稲田大学大学院 文学研究科紀要 第68輯』。ゲームとファッションとタコライスが好き。














































