2021年6月に開かれた「第24回上海国際映画祭」の短編部門で日本人として唯一入選した逢坂芳郎監督が北海道へUターン。カンボジアで撮った短編映画「リトル・サーカス」で得た可能性を胸に新たな挑戦に動き出しました。
上海映画祭で入選した「リトル・サーカス」
パンデミックを起こした新型コロナウイルスの影響で、世界最高峰のサーカス・エンターテインメント集団「シルク・ドゥ・ソレイユ」が閉鎖に追い込まれたことは記憶に新しいでしょう。現在では再建支援を受けて再始動しているようですが、世界各地でエンターテイメント興行は大きな打撃を受けました。
そんな中、十勝幕別町出身の映画監督である逢坂芳郎さんは、一般には届くことのないコロナ禍のストーリーを題材に一本の映画を撮りました。
その映画こそが、カンボジアのサーカス団(Phare Ponleu Selpak)が実際に経験したパンデミックの境遇を基に映画化された「リトル・サーカス」です。映画に登場するのは実際のサーカス団員や家族、街に生きる人たちで、カンボジアサーカスの生き様が瑞々しく映し出されています。
逢坂さんは映画についてこう話します。
「映画自体はフィクションですが、出演者の多くは実際のサーカス団のメンバーやまちの人たちです。コロナ禍での子どもたちの経験をベースにしているんです。登場人物のキャラクターも実際の彼らの性格をもとにしました。映画のなかの笑顔や振る舞いは、彼らの前向きな素の表情だったり、動きなんです」
まさに、ありのまま。フィクションでありながらドキュメンタリーのような映画。ところが、映像美は緻密に創り上げられた作品になっています。だからこそ、上海映画祭で評価されたのでしょう。
リトルサーカスは、2021年の上海国際映画祭において日本作品で唯一コンペティション部門に選出されたほか、SKIPシティ国際Dシネマ映画祭では、 国内コンペティション (短編部門)で史上初となる2冠(優秀作品賞、観客賞)を受賞しました。
国際映画祭で評価された監督、逢坂芳郎さんとは
逢坂さんは、北海道十勝地方にある人口1万2000人ほどの幕別町で生まれ育ちました。映画の世界に入るきっかけは高校時代に遡ります。
高校はOBに、日本のシンガーソングライターの中島みゆきさんやDREAMS COME TRUE(ドリカム)のボーカル吉田美和さんらを輩出した北海道帯広柏葉高等学校です。
高校時代について逢坂監督は「映画の世界への原点は高校時代ですね。親のビデオカメラを持ち出しては、学校での生活風景や友達を映していました。撮ったあとは自宅で編集し、それをまた皆に見せるが楽しかったんです。編集といっても8mmビデオですから、ビデオデッキと繋げてダビングボタンとストップボタンを“ガチャンガチャン”と押すような方法で地道に作っていましたね」と振り返ります。
なぜ、ビデオカメラを持ち出したのでしょうか。動機はある映画監督への憧れでした。
「映画というかビデオカメラをまわしたのは、単純に観た人たちが喜んでいる姿をみて、楽しませるという快感からでした。あとは、香港の映画監督ウォン・カーウァイの作品に魅了されたからですね。皆さんもご存知かもしれません。『恋する惑星』『ブエノスアイレス』『天使の涙』など、俳優の金城武さんがブレイクするきっかけに繋がった作品を撮った監督です。当時、ハリウッド映画以外でアジアの世界的な映画といえばアクションが主流でした。そんな中、ウォン・カーウァイ監督はクエンティン・タランティーノから絶賛され、一躍、世界的に有名な監督になりました」(逢坂)
ウォン・カーウァイ監督に憧れた逢坂少年でしたが、高校時代は今のように脚本までは書けません。その代わり、こだわったのが音楽でした。
「脚本は書けませんから音楽にこだわりました。編集した映像に音楽を載せるだけなんですが、それでも、すごくかっこよくなるんです。皆で観ながら『おお!かっこいい』と興奮したのを覚えています」(逢坂)
逢坂少年のまわりの友人・知人たちは、監督が何度も作りたくなるほど喜び・楽しんでいたに違いありません。その証拠が、前述の「喜び楽しんでいる同級生たちの姿を見てまた作りたくなったんです」との監督の言葉からもわかりますね。尽きない周囲の笑顔は、いつしか逢坂監督のあたまに「自分はアメリカに行くんだ」と自信を植え付けます。
「もう自分は本場のアメリカで映画を学ぶしかないと思っていましたね。そのためにはTOEFLで高得点が必要と思い、猛勉強していましたよ。両親も勉強する私の姿に共感してくれたのが、留学を許してくれました。両親には本当に感謝していますよ」(逢坂)
高校卒業後、逢坂さんは単身アメリカへ留学。カリフォルニア州立大学フラトン校に入学し、コミュニケーション学を専攻。ただし、同大学には残念ながら映画の専門的な授業はなく、高校時代の延長線のように地元のサッカーチームのドキュメンタリー作品を制作したり自主映像作品を作り続けていたそうです。
ところが、転機は自ら作ることでやってきます。
「モヤモヤするなか、どうしても映画を勉強したいと想い、映画学部のある、ニューヨーク市立大学ブルックリン校に編入し、映画制作を学び学士を取得しました」(逢坂)
ニューヨークは、家賃も高く、逢坂さんは現地で出会った映画好き5人で家を借りての生活を開始。まさに漫画の世界でいえば、トキワ荘です。逢坂さんにとっては、本気で映像制作に取り組むメンバーとの共同生活。毎日が映画の話と映画づくりに没頭する日々、「映像制作について思いきり学べましたし、自信にも繋がっていきました」と語る通り、ニューヨークでの経験が映像を生業とするという決意につながったと言います。
本場アメリカでの映画の勉強を経て、卒業後の進路は日本でした
ところが、逢坂さんは大学卒業後の進路をアメリカでの就職ではなく、日本への帰国という決断を下したのです。
逢坂さんは当時の心境についてこう語ります。
「何年でもアメリカで過ごしたことで、冷静に状況を判断できる自分がいました。そして、自己分析をした結果、当時の自分の英語力ではアメリカの制作会社ではついていけないことが明白でした。仮に現地の日系映像会社への就職という道もありましたが、仕事の大半は日本のメディアや映像会社の現地取材などで、映画制作ができるわけではありません。映画を作るのであれば日本の方が可能性が高いと判断したんです」(逢坂さん)
「すぐにでも映画を撮りたい」。逢坂さんは映画を撮れる可能性の高さを選択したのです。
そうして、2005年に本帰国。東京でフリーランスとして活動を開始します。大学時代に作り溜めた映像作品を制作会社のプロデューサーに持ち込み、半ば直談判のような営業も……。
転機はすぐに舞い込みます。
「英語ができたことで、日本に住むアメリカ系の制作会社から仕事をもらい、食い繋ぐことができました。経験を積みながら、お金を貯めて自主映画を作るというサイクルがはじまりました」(逢坂)
皆さん、記事の冒頭文を思い出してください。逢坂さんの原点である高校時代を。そして、好きな音楽を載せて映像作品を作ったあの日々を。フリーランスになってからは、ミュージシャンらと映像舞台を作り、クリエイターとしての経験を積む毎日は約10年続きます。東京での生活について逢坂さんは、「仕事で稼ぎ、自主制作作品に充てるというようなスタンスでした」と振り返ります。
まさに下積み生活を送る逢坂さんに新たな転機が舞い込みます。
出会いは突然でした。
東京で生活するなか十勝出身者の会があると誘われ、行った先で出会ったのが、現在、帯広でホテルヌプカを運営する弁護士の柏尾哲哉さん(帯広市出身)でした。
柏尾さんが語ったのは「十勝に新たな観光モデルをつくりたい。そのために地元帯広に会社を立ち上げる。そして、国内外から多くの旅行者が集まるためにホテルを作る。呼び込むために十勝観光の魅力を世界、とりわけアジアへ伝える映像がほしい」と熱く頼まれたそうです。
青天の霹靂か、あるいは地元十勝を想う強さが呼び寄せた必然だったのでしょうか。
逢坂さんは「偶然ですよ。ただし、十勝への想いが強いことは本当です」と話します。実際、帰国後、多くの仕事をするなかでも十勝や北海道をイメージした映像を取り入れたり、『十勝で映画が撮れたらいいな』と漠然と想い描いていたそうです。「もしかしたら、知らずに想いを口にしていたから声をかけられたかもしれません」(逢坂)
短編映画『マイ・リトル・ガイドブック』は地元十勝が舞台。主演は台湾女優
そして誕生したのが、出身地である北海道十勝を舞台に撮った『マイ・リトル・ガイドブック』でした。映画の主演は、台湾で活躍する女優・吳心緹(ウー・シンティ)。台湾人のヒロインが新たな夏の北海道の観光スポットを探しに、海を越えて十勝をひとりで訪れるというストーリーでした。海外からの視点を織り交ぜながら、十勝に暮らす人々と美しい風景を鮮やかに描き出した映画です。十勝出身者であり、海外経験を持つ逢坂さんだからこそ撮れた作品となりました。
まさに映画監督・逢坂芳郎の誕生です。
マイ・リトル・ガイドブックは札幌国際短編映画祭を受賞し、続編『My little guidebook -ICE-』も作られました。
前述した通り、この映画は十勝出身の有志による自主制作映画で制作会社も配給会社もありません。「制作資金はクラウドファンディングを利用して集めましたし、多くの地元の方々の支えがあって完成した作品です。柏尾さんも十勝を離れて都会で暮らしているからこそ、気づくことのできる価値を表現してほしいと言っていましたし、私自身もそのつもりでした。制作に携わった皆の気持ちがひとつになってできた作品です」(逢坂)
ストーリーである、主人公の台湾人女性が十勝管内各地を巡りながら人々との交流を深め、観光を超えた価値に気づくという視点。これは、逢坂さん自身も感じた、住んでいると気付けない価値に気づき、その小さな感情が、最後には大きなうねりとなって“きづき”の大切さを伝えるという内容です。
十勝出身者であり、長年、海外や都会で生活をしてきた逢坂監督だからこそ描けたストーリーだったのでしょう。
作品について逢坂さんは「ふるさと十勝を題材に、十勝内外のすべての人が感じ取れる“きづき”というメッセージが伝わったことは、私にとっても大きな経験となったのと同時に、考え方や今後の作品の方向性をも示してくれました」と語ります。
映画を作ったことで、逢坂さん自身もあることに気づいたそうです。
北海道十勝にUターンして「十勝を舞台に長編映画を撮りたい」
世界はインターネットの普及と映像技術や機材が誰でも扱える時代となりました。そして、新型コロナの影響はリモート会議が浸透し、仕事はどこにいてもできる時代へと変わりました。田舎暮らしであろうと都会暮らしであろうと関係ありません。
映像作家として、どこに住んでいても活動ができることに気づいた逢坂さん。拠点をふるさとの北海道十勝にUターンするという形で移します。
2020年、東京から十勝帯広にUターン(厳密には帯広の隣にある幕別町が出身なのでJターン)しました。
カンボジアで撮った「リトルサーカス」は、自分でお金を集めて製作したいわば自主映画です。この経験が住む場所にこだわらずとも映像作家として活動できることに気づかせてくれたそうです。
ふるさとへの強い想いは「マイ・リトルー」を撮ったことで、改めて自分への気づきにつながりました。「だからこそ前回のような短編ではなく、十勝を舞台にした長編映画を作りたいと思ったんです。長編作編を製作するためには、地元十勝をもっと知らなくては深いストーリーは描けないし、撮れないと考え、自分で腰を据えて住みながら、今一度、十勝を見ていこうと決めたんです」(逢坂)
あるUターン者に聞くと「住んでいた頃は学生で視野も行動範囲も狭く、ふるさとのほんの一部しか知らないで育ちます。離れてはじめてふるさとの良さに気づくのですが、それも一部に過ぎません。大人の生活、社会を知るには、そこに住んで働き、生活してはじめてわかるんです」と話します。
逢坂さんが撮った「マイ・リトルー」は、当初、逢坂さんの子どもの頃の思い出に沿っていたに違いありません。ところが、撮影を進めるなかで逢坂さん自身も多くの十勝の良さに気づかされていったそうです。それは、まさに映画の主人公と同じ感覚でした。
「外からみた十勝と内からみた十勝の両方を知る映像作家として表現できたらと思っています」(逢坂)
スマヒロでは、映画監督・逢坂芳郎さんが十勝を舞台にした長編映画ができるまでを追いかけていこうと思います。
【PROFILE】
逢坂 芳郎|YOSHIRO OSAKA
映像作家
北海道・十勝幕別町出身。帯広柏葉高校卒業後に渡米。ニューヨーク市立大学ブルックリン校で映画制作を学び学士号を所得。日本帰国後は映画、ドキュメンタリー、コマーシャル制作。ふるさと十勝を舞台に撮ったMy little guidebookが第10回札幌国際短編映画祭。My little guidebook ICE (2015)は 第12回札幌国際短編映画祭。最新作はコロナ渦のカンボジアを舞台にした短編映画「リトルサーカス」(2021)
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