90年代前半の帯広駅南側はなんにもなかった
ぼくが帯広の高校を卒業して、函館の大学へ進学したのが1996年。旅立ちを見送ってくれた帯広駅は、まだ古い駅舎でした。駅舎の上階にはステーションホテルがあり、2階には、飲食店も入っていたんです。
現在の4代目駅舎に改築されたのは1996年11月。連続立体交差事業により駅高架化され、それまで線路で分断されていた駅南側と北側の往来が楽になりましたね。
それまで、主要幹線道路のひとつ、大通りは跨線橋で線路を跨いでいましたし、逆に西5条通りは、人も車もアンダーパスでした。
駅舎が新しくなるまえの駅南側は、現在のノースランドホテルもない、信金中央支店もない、とかちプラザもなく、更地が広がっていたんです。想像つかないですよね。そして、もっと古い話をすれば、ぼくが幼い頃は材木置き場で丸太が山になっていたし、更地の広場には定期的にサーカスがやってきて三角テントをみると興奮したもんです。
ミルキーウエイを渡って帯広駅北側へ
そのうち、帯広文化ホール(1989年)ができ、翌年には長崎屋(1990-2023年)がオープン。中学・高校時代といえば、長崎屋にあった屋内遊園地「ファンタジードーム」で遊び、今とは違い、人がいっぱい歩いていた駅北側には、連絡橋「ミルキーウエイ」を渡っていくんです。当時は駅周辺に行くことを「街に行こう!」と表現するほど、都会に出る感覚でしたw
ミルキーウエイをわたり切るとビール園(子どもだったの入ったことない)があり、現在の交番あたりに降ります。直ぐ側の駅入口には緑色の公衆電話が置いてあり、テレホンカードを握りしめた学生が列をなしていました。
そうです。ポケットベル(ポケベル、ベル)のためです。
ポケベルは、一般電話(プッシュホン)から10文字程度の数字列を送りポケベルに表示され、多くは電話番号を載せて、電話するよう呼びかける用途で使われていました。
その後、数字列で「0840(おはよう)」と解読しながら会話を楽しんだり、そのうち、カナや漢字まで使えるように進化していきます。
ぼくが持っていた頃は、数字だけから文字が打てるようになっていた時代。最初に使っていたのは、mola(モーラ、通称マンボウ)で、最大6文字しか出ません。画期的だったのはベル本体でボタンを押してカナに変換できたセンティーシリーズ。記憶が定かではありませんが、最大24or32文字まで出るようになった画期的なベルでした。
さて、90年代の前半から中頃のお話でした。どうでもよいですよね……。
当時の画像あるひとは、お借りしたい。
スマヒロのコラム、略してスマコラでした。