【連載】美学者 上野悠の「美学でひもとく世界」
【テーマ】ゲームをめぐる「行為者性」って何だろう?── C・ティ・グエンの哲学に触れてみる
みなさん初めまして。現在、大学院の文学研究科で博士後期課程に在籍している上野と言います。では、一体何の研究をしているのかというと、ざっくり言えば、「ゲームの哲学」もしくは「ゲームの美学」というテーマで研究をしています。
「美学」というのは学問分野の一つなのですが、みなさんあまり聞きなじみがないかもしれません。日常会話で美学というと、「ワインの美学」とか「悪役の美学」のような使われ方をする方が多いですが、それとはかなり異なります。
美学とは哲学の一部門
わたしたちが絵画を見て「美しい」と感じたり、映画を見て「クールだ」と感じたりするときには、なんらかの「感性」が働いていると言えますよね。
「美学」とは、これまたざっくり言うと、そういった「感性」を対象にした哲学の一部門です。例えば、あるなにかに対して「美しい」「かっこいい」と評価するときのような、感性を用いる判断には、善悪の判断やお金を儲けるにはどうしたらいいかの判断などとどのような違いがあるのか、といった問いを扱うのが「美学」です。
また、美学を研究している人たちは、美学の研究対象になるようなものをよく「美的○○」という風に呼びます。すぐ上で挙げた例で言うならば、そうした判断や評価は「美的判断」と呼ばれています。そうした「美的なもの」について研究をするのが、美学という学問なのです。
ゲームは哲学や美学の研究対象になりうるの?
さて、美学について一通り説明したところで、少なくない方々が疑問に思うであろうことは「ゲームが研究の、それも哲学や美学の分野の研究対象になるの?」ということでしょう。哲学や美学は、壮大なものから些末なものまで、非常に幅広いテーマを扱えますので、ゲームももちろん対象にできます。
なので、上の質問は「ゲームを哲学や美学の研究対象にして、なんの意義があるのか」という疑問に言い換えられるかもしれません。その疑義に対しては、「人によっては意義がある」と答えることしかできません。ゲームを哲学することによって見えてくるものは、ゲームであるものとゲームでないもの(例外や境界事例を認める)との境界線や、ゲームをプレイすることならではの経験・価値とは何か、といったことです。
選挙や経済活動もゲーム?
もちろん、ゲームに全く興味のない人や、「ゲームが楽しければそれでいい」という人にはあまり関心のないことでしょう。それでも、ゲームについて哲学的に考えることで、そのおもしろさを思わぬ視点から説明できたり、ゲームという存在をより深く理解できたりするのは、それなりによいことではないでしょうか。
例えば、選挙や経済活動など、ゲームとは言えない領域でも「ゲームっぽい」と感じたり、「ゲーム化している」と言いたくなることが(良くも悪くも)ありますが、そうしたときゲームの哲学から分析ができるかもしれません。
C・ティ・グエンの「行為者性の芸術」──ゲーム哲学の最先端
それでは、今回はゲームの哲学の最先端の研究を少しだけご紹介いたしましょう。2020年に刊行されたアメリカ在住の哲学者C・ティ・グエンによる著作『Games: Agency as Art』は主にゲーム哲学の研究として読まれていますが、美学やスポーツ哲学など幅広く影響を与えている名高い本です。
グエンは著作名の通り、ゲームを「行為者性の芸術」として捉えようとしています。「行為者性」というのはあまり耳慣れない言葉かもしれませんが、ここでは人間が意図をもって行為をする際の、行為者としての在り方という風に捉えてもらえればと思います。
行為者性
車の運転をするとき、アクセルやブレーキのペダルを踏んだり、ハンドルを操作したりすることで車を動かしますよね。このとき、わたしたちはドライバーとしての行為者性を持っていると言えます。グエンによれば、ゲームはこうした行為者性をプレイヤーに発揮させるための人工物であり、ゲームデザイナーは「ルール」と「目標」という材料を使ってプレイヤーの行為者性を楽しませる装置を制作している、というわけです。
「努力のプレイ」と「達成のプレイ」
さらにグエンは、ゲーム哲学の先駆者バーナード・スーツの理論から影響を受け、「努力のプレイ」という概念を提示しています。これは「達成のプレイ」と対照的なプレイヤーの在り方を指すものです。
【努力のプレイ】ゲームをプレイするなかで経験される「奮闘」自体を目的とするプレイ
つまり、プレイヤーはゲーム内の目標を達成することだけではなく、それを目指して奮闘するプロセスそのものにも価値を見出すことができるのです。グエンは特にこの「努力のプレイ」を重視しています。
行為者性の二重化と「まじめな」プレイ
しかしながら、ここで一つの問題が浮上します。ゲームを正しくプレイしようとすると、純粋に勝利のみを目標にしなければならないのではないか、という問いです。たとえばプロテニスの試合中、勝つこと以外を目標に掲げている選手はいないでしょう。仮にいたとしても、その選手は「プロの選手」と呼ぶにふさわしいのか疑問です。少しでもまじめにテニスに取り組んでいるなら、試合中は勝つことのみを目的としてプレイするのが普通ですよね。
行為者性の層
一方で、「奮闘を楽しむ」ことを第一の目的にしてしまうと、ゲームをまじめにプレイしていないようにも見えます。ここでグエンが注目するのが、プレイヤーの目的意識を二重化する能力です。プレイヤーは「奮闘を楽しむ」という大きな目的を抱えながらも、プレイ中はそのことを忘れて「勝利すること」を唯一の目標として集中できる、というわけです。
こうした態度の構造をグエンは「行為者性の層」と呼び、プレイヤーが複数の行為者性の層を行き来することを「行為者性の流動性」と位置づけます。この流動性を獲得できることこそが、ゲームの大きな魅力の一つなのだといいます。
行為者性のライブラリを増やす
さらにグエンは、ゲームをプレイすることで多様な行為者性を獲得できると指摘しています。チェスをプレイすれば論理的思考を含んだ行為者性を、サッカーをプレイすれば足でボールを操る技術を含んだ行為者性を身につけられます。チェスと将棋のように似たゲームでも得られる行為者性は微妙に異なるでしょう。
こうして、さまざまなゲームをプレイしていくと「行為者性のライブラリ」が形成され、実生活でも多彩な行為者性を引き出して活用できるようになる。これによって人生がより豊かになり、行為の自由度も増すのです。これもまたゲームがもたらす恩恵だと、グエンは考えています。
グエンが重視する「継続」や「繰り返し」
ここまでグエンの論をざっくりと紹介してきましたが、私自身が注目しているのは、グエンが暗に重視する「継続」や「繰り返し」の要素です。別の論文(“The Right Way to Play a Game.” In Game Studies 19, no. 1 (2019))では、チェスのようなゲームは繰り返しプレイすることで「正しい出会い」の条件を満たす、とされています。「努力のプレイ」や「奮闘」に関する議論も、継続してプレイすることが前提です。
グエンは、日常生活ではあまり起こりえないことを繰り返し体験させるツールとしてゲームを捉え、そこで奮闘し、行為者性や行為者性の流動性を高めるシナリオを描いているように見えます。ある意味求道者的とも言える「努力のプレイ」論は、そうした背景から生まれているのかもしれません。
「瞬間」にフォーカスする「アンチグエン」的視点
最後に、グエンの「行為者性」中心のゲーム哲学に対して、私自身が抱いている「アンチグエン」的な考えを少し述べてみたいと思います。グエンは、ゲームの良さを「繰り返し」を可能にする点に求めているわけですが、私はそれ以上に「瞬間」に注目すべきではないかと考えています。
私の経験では、個々の行為こそがゲームにおいて重要に思えるのです。高校時代に所属していた弓道部で、いまでも月に1回ほど仲間たちと練習しているのですが、私が弓道で最も大きな喜びを感じるのは、自分の中ですべてが完璧にうまくいったと思える「瞬間の射」で的中したときです。そんな風に、時折遭遇する「完璧な射」を中心に考えると、それ以外の外れた射や思うようにいかない射は、いわば「完璧な射」を出すための供物のように思えてくるのです。
プレイ自体が美的に価値がある
グエンの言う「奮闘」は、まさにそうした「卓越したプレイ」を生み出すための過程だと私は考えています。そして、卓越したプレイこそがゲームにおける最も重視すべき価値ではないか、と。グエンも「調和」という概念でゲームの美的質を説明していますが、私自身は「世界との調和」というより、「そのプレイそれ自体が美的に価値がある」という視点を持っています。つまり、グエンが「行為者性」を中心に論を立てたように、私は「美的行為」を中心にゲーム哲学を構築していくのが当面の目標です。
おわりに
今回は「ゲームの哲学」について、C・ティ・グエンの考えを軸にご紹介しました。次回以降も、哲学や美学の視点からさまざまなテーマに迫りたいと思っています。次もゲームを取り上げるのか、あるいはまったく別の事柄なのかはまだ未定ですが、多くの方に楽しんでいただける記事をお届けしたいと思いますので、ぜひまたお読みいただければ幸いです。
美学者とは
美学者の役割
- 【美的判断】なぜある人が「美しい」と感じる対象を、別の人は「そうでもない」と思うのか
- 【芸術作品の価値】作品が私たちの感性に与える影響を、どう評価し、言葉で説明できるか
- 【日常の美】ファッションやインテリアなど身近なところに潜む「美しさ」をどのように考えるか
こうした問いに取り組むのが美学者の役割です。近年では、ゲームの体験やデザイン、スポーツや身体表現、さらにはSNSなど、従来は「美学」とはあまり結びつかなかった分野にまでその探究範囲が広がっています。哲学や芸術学と深く関係しながら、現代社会のあらゆる「感性の問題」に光を当てるのが、美学者と呼ばれる人々なのです。
【PROFILE】
北海道帯広市出身。早稲田大学文学研究科博士後期課程在籍。専門は、ゲーム研究、美学。主な論文に、「個人的なものとしてのゲームのプレイ: 卓越的プレイ、プレイスタイル、自己実現としての遊び」『REPLAYING JAPAN 6』、「ゲームにおける自由について──行為の創造者としてのプレイヤー──」『早稲田大学大学院 文学研究科紀要 第68輯』。ゲームとファッションとタコライスが好き。