「帯広開拓物語〜勉三さんはなぜ帯広を開拓の地に選んだの?〜」(とかち史談会主催)が7月15日、帯広市内のとかちプラザで開催されました。約150人が集い、十勝・帯広の開拓の祖「依田勉三」翁の偉業が再び語り継がれました。
7月15日は依田勉三が帯広の開拓を決意した日
帯広市の開拓から140年が経ち、市制施行90年を迎えた今年。様々な式典やイベントが開催されていますが、「帯広開拓記念の日」である7月15日は「帯広開拓物語〜大型音楽紙芝居で語る〜」と「帯広開拓記念の日」特別講演〜歴代帯広市政と市長を語る〜の2つのイベントが開催されました。帯広の歴史を学ぶ貴重な機会に150人が参加しました。
冒頭、とかち史談会の上野敏郎代表が「明治15年(1882)7月15日は、依田勉三が十勝・帯広(オベリベリ)を訪れ、開拓の決意を決めた日で、帯広にとっては大切な日なんです。この日にイベントを開催できたことが大変嬉しい」とあいさつ。
大型音楽紙芝居では、親と子のミュージカル「劇団パズル」が依田勉三翁を演じ、大型スクリーンに映し出される音楽と共に開拓当時の写真を紹介。劇団パズルの子どもたちの朗読により、勉三の情熱と開拓の苦労、アイヌ民族との交流などが感動的に描かれ、参加者を魅了しました。
帯広市政と市長のエピソードを披露
帯広市開拓140年を祝し、依田勉三翁の開拓から140年の歳月が経った今でも、彼の偉業と情熱は市民の心に生き続けています。このイベントを通じて、彼の存在と帯広開拓の歴史をより多くの人々に伝わったのではないでしょうか。
さらに、元帯広市議会議長で帯広の歴史家でもある嶺野侑さんによる「歴代帯広市政と市長を語る」講演も行われ、渡辺守治から田本憲吾までの市政と市長の貴重なエピソードが紹介されました。
帯広はオペレペレケプ
北海道は昔、蝦夷地と呼ばれていました。そこでは、先住民族のアイヌの人たちがこの土地の自然に合わせた独自の文化を築いていました。そして帯広の名前の由来は、アイヌの人たちがこの地を”オペレペレケプ”(河口がいくつにも分かれている川)と呼んでいたそうです。それが次第に変化して帯広と呼ばれるようになったんですね。幕末には松浦武四郎がこの地域を調査し、十勝川流域の肥沃な土地が農業に適していることが知られるようになりました。
大器晩成から開拓団「晩成社」
帯広の開拓は、屯田兵などの官主導ではなく、依田勉三が率いる開拓団「晩成社」の入植によって本格化したんです。晩成社という社名は、「大器晩成」という言葉にちなんで付けられました。開拓は時間がかかるかもしれないけど、必ず成功するという願いが込められているんですよ。
依田勉三は静岡県松崎町出身
依田勉三は1853年に松崎町で生まれ、1883年に帯広に入植しました。彼は開拓を目的とした晩成社を結成し、当時まだ人の手が入っていなかった十勝平野の開拓を始めたんです。そして、バターや牛肉の生産や輸送販売など、さまざまな事業も展開しました。晩成社の経営は苦労の連続でしたが、その産業は後の十勝に大きな影響を与えることになりました。