帯広で映画を観た!シネマ de 十勝は、帯広で働く腐女子。「総統」と呼ばれた女子が、身の回りの幸せ(美味しいご飯・趣味・脳内妄想など)で足るを知る小市民として、十勝の観光文化検定(とかち検定)上級合格の実力を発揮しつつ、帯広・十勝の話をしつつ、映画を語るコラムです。今週の映画は『白雪姫』です。
前回のコラム「帯広で映画を観た!」はコチラ
ディズニーが迷走してきた歴史の集大成といえる『B級映画』
前評判で心配していたんですが、予想以上に面白かったです!
『白雪姫』
まさかディズニーの膨大なノウハウ蓄積と莫大な制作費をかけて作られたのが、B級映画の迷作だったとは!!!
(制作費、推定2億4000万〜2億7000万ドルとのこと)
今まで褒めてきた作品とは違う意味ではありますが。
あのディズニーが本気で作ったB級映画、なかなかお目にかかれません!
(多分アニメーション製作陣の方が、大当たりまではしなくても大外れはしない堅実な物づくりのノウハウを持ってると思う)
多様性におもねってフラッフラしてきた、近年ディズニーの迷走の歴史の集大成というべきか。
恐らくこれが最大級で、これ以上の作品は出ない、ディズニーの歴史に名を残す不朽の迷作になることでしょう。
それだけでもB級映画愛好家は見る価値があると思います。
(逆にそうでない人には『白雪姫(1937)』か、今なら『ウィキッド』を薦めたいです)
先人が成し遂げた過去の金字塔に、軽率に殴り込みをかけブチ壊しにかかっているのが、実に面白い。
それを確認するのに、どの程度お金をかける価値があると思うかは個人差です。
(私も割引料金だったからで、正規料金だったらちょっと腹が立っていたかもしれません)
人を選ぶ作品なので、楽しめる人には上映終了後でも、機会があればぜひ観賞してみていただきたい作品です。
また、好きな声優・俳優さんが参加している人は吹替版を見に行っても良いのではないでしょうか。
流石はディズニー映画ですので、各キャラクターが活躍する場面が多いです。
ただ「王道の『白雪姫』が見たい」「アニメ『白雪姫』を大事に思っている」人にはとても勧めにくいです……。
「何か行動したくなる」
というのが私の中では「見た価値があった」と思える映画基準でもあります。
そうでない場合「この監督の作品はできる限り見ない」「作品名も出したくない」となりますが。
2025年版『白雪姫』は、見てる最中
「これなら『ウィキッド』もう一回見たい」
「ああ、1937年版『白雪姫』が見たいものだ」
と、他の作品に対して突き動かされるパワーがありました。
映画『バービー』の監督・脚本グレタ・ガーウィグが共同脚本に入っているというのも話題の一つだったのに、公開された時には名前が消えていたとういう、脚本家すら途中で抜けたくなるほど、大いなる力を持っている作品です。
(名前を残したくなかったのか、それだけ不本意な作品になったのか、収拾がつかなくなったのか……)
しかし見なかったものとしてスルーするのではなく「語らずにはおれん!」「上映終了後でもいいからB級映画愛好家に見てほしい!」と拡散したくなるだけでも、やはり正統派ではなくてもこの映画には相当な魅力があると感じています。
『白雪姫』は皆さんご存知、グリム兄弟がドイツの昔話をまとめた『グリム童話集』が原作です。
王子様のキスで目覚めるといった点はディズニーの創作。
ディズニー代表する世界初の長編アニメーション『白雪姫』(1937年)から、満を持しての実写化作品でした。

「ここがヘンだよ『白雪姫』!」5つのポイント
◆「大雪の日に生まれたから白雪姫」
主演のレイチェル・ゼグラーはラテン系で、健康的な小麦色系の肌をしています。
(ラテン系云々というより本人発言で炎上して批判されてるイメージが……)
そこから「雪のように白い肌だから白雪姫」との間でどう辻褄合わせをするのかと思っていたら……。
よくその言い訳で通じると思ったな、ディズニー!!??
グリム童話でも白雪姫の名前の由来は「雪のように白い肌だから」白雪姫。
どんな肌色のプリンセスがいても良いと思いますが、さすがに『白雪姫』はアン・ハサウェイくらい肌が白い役者さんを連れてきてくれませんでしょうか……。
(「世界で一番美しいのは誰?」に対する鏡の答えに嫉妬して女王に殺されかける話なんだから、女王より可愛い子を連れてきて……とも)
肌の白さも外見の美しさも、それはそれとして認めてくれないと、それこそ多様性の否定。肌が白くないプリンセスの映画を作りたかったら『白雪姫』ではない別の新作でやればよかったのにーと思いました。
あと、より個人的な偏見で申し訳ないんですが。
私、人の顔の把握能力がざっくりすぎてですね……。
不運なことに、本編上映前の『アマチュア』予告編に登場したラミ・マレックを見てしまいまして……。
(歌ってる役だと『ボヘミアン・ラプソディ』でフレディ・マーキュリーを熱演)

とはいえ「置かれた場所で咲きなさい」とも言うけれど、「強くたくましい戦うプリンセス」を演じたレイチェル・ゼグラーは、このポリコレと多様性に自縄自縛になったこの製作陣の作りたかった『白雪姫』より、もっと適材適所で力を生かせる場所があるだろうと思っています。
◆「世界で一番美しい」の設定ブレブレ
「世界で一番美しいのは誰?」と問われた鏡が一定時期まで「世界で一番美しい」と答えるのも納得の女王(ガル・ガガット)。
それが途中から白雪姫にチェンジした理由が→「美しさ(内面の美も含む)」
途中から『美しさ』の定義変更、あかんて!!!
「真実だけを話す鏡」とか言いながら、真実はそこにないぞ!
「内面の美しさ」なんぞ、判断する側の恣意的なガバガバ基準やないかい!?
それで最初から野心満々で王様に近き、継子を虐げる女を「美しい」と言い続けてたとか、おかしいだろ!!??
(自分の欲望には一途で、ピュアとも言えるけれども)
女王はその段階で白雪姫を殺そうとするよりも、鏡叩き割って良かったと思います。
◆グダグダな脚本
『白雪姫』は前半で新機軸を提案し後半が既定路線をなぞりにいくため、ストーリーとしては後半の方がダイナミクスが失われ失速していきます。
「お金を払ったからには」と貧乏性のこの私が、久々に後半があまりにタルて眠たくなってしまったくらい、偉大な脚本です。
”新時代”の『白雪姫』は、王子様を待つ女性ではなく、統治者の心構えを父王から学んで育った強いプリンセス。
(大事なことなので繰り返しますが、私は「そういうことがしたいなら別作品でやれ」派です)
それなのに女の色香に目が眩み結婚までした挙句、軽挙妄動で城を出るとか、父も決して名君ではないという……。
「みんなで少しずつ分け合えば」王家の生活が成り立つと言いつつ、城下町も小さすぎるし……。
(平常時でも役者の舞台どころか、王様一家を支えるのもかなり難易度が高いだろう)
白雪姫の国は超ド貧乏だから、今まで軍隊の備えがなくても諸外国に狙われてこなかったの?
貧乏だからお城に家臣(従業員)が少なくて、セキュリティガバガバなの……?(ほぼ出入り自由だ)
また前半は話の展開が謎に激しく、白雪姫が森に逃げ込んでいる最中、水に落ちるシーンが登場します。
白雪姫が水に落ちて陸地に上がってきた直後
→鹿ちゃん登場!
→ポッケから乾いたパン(!!!!)を取り出す!
→小人の家にたどり着き、勝手にベッド3つ占拠して寝る!
「……これって、民のことを考えた慈悲深く気遣いのできる貴種のエピソードというより、自分も家事をするのに濡れて汚れた服と髪で3人分のベッドを汚すなかなかの迷惑女エピソードみたいになってる……」シーンが登場し、何を表現したいのか当惑させられました。
女王に家事をさせられてたくらいで、いつ食べ残しが出てもいいよう、白雪姫はドレスのポケットにビニール袋を完備しているのかい?
といった前半の脚本・演出のグダグダさが面白かっです。
後半は、透けて見える製作陣の、為政者に対する理想論と思想がとても鼻につく感じがした上、ダルかったでし。
◆相手役が王子ではなく「山賊」
王子と姫なら身分も対等なパートナーシップが結べるはずが、わざわざヒーローを一般市民に変える必要性とは……?
(シンデレラが上方婚と叩かれた反動とかで、下方婚の予兆を組み込みました……?)
長い映画ではないのに、ヒーローとその仲間の山賊達(何だか多様性要員っぽい……)、「七人の小人も出るけれど、山賊達も登場!」とか、人を覚えるのが苦手な人間にはゾロゾロ出過ぎな気がしました。
人が多すぎて、役割やら何やらが、どっちつかずになっていたと思う……。

そんな違和感以外に、ごくごく小さいものだと「ハイ・ホー」が気になりました。
「ハイ・ホー」というより、今回の編曲だと「ハイ・ホ」では……。
「そこの音、伸ばさないんだ」もちょっと違和感でしたけれども。
それよりも何よりも!
アニメ映画版の有名な名曲『いつか王子様が』と、『私の願い』が歌われなかったのも、どうかと思います!
王子様を待つのではない、自ら戦う「新時代の強いプリンセス」像にはそぐわなかったんでしょうが!!
『いつか王子様が』抜きの白雪姫なんて!
グリンダが『ポピュラー』を歌わない『ウィキッド』か、炭酸の抜けたコーラのようでした!
白雪姫は統治者の心を持つので、小人の家に行っても、掃除の指揮・監督はしても自分は掃除に加わっていないという「ちゃっかり」さを示しています。
確かに指導者としての才は感じるし、自分たちが喧嘩したりで小人が散らかしたとはいえ、一宿一飯の恩というものはないのかい!?
白雪姫は本当に美しい心の持ち主なのか?
「白雪姫が統治者に相応しい片鱗を見せる(見せたい)」だろう設定で出してくるエピソードが続々ヘンで微妙なのが、あれこれ考えさせられます。
◆その設定で白雪姫殺そうとしたらあかん
女王から白雪姫を殺すように命じられた人も、殺せずに失敗するのはそこは従来通りとはいえ。
そもそも白雪姫のお話が成立するのって、「いつか王子様が」来るのを待つプリンセス(結婚するなりして外に出す子)の立場で、「失っても問題ない」前提条件があるからから何度も殺しのチャレンジができるんですよね……。
それが、この映画だと他にきょうだいも見当たらず、白雪姫が唯一の王位継承者。
継母、自分は子供産んでもいないし、遠縁の子供だとかを後継者に据えるのに連れてきてもいないのに、いった何考えて後継ぎを追い出したり殺そうとしているのだ!? (好き勝手して死んだ後なら、隣国だとかに吸収合併されても平気なのかもしれないけれども)
この世界設定だと、白雪姫に大人しく虐げられている理由がなくて、むしろ姫が本気出したらいつでも正当性のない女王追い出せると思うんですよね……。

「人の上に立つに相応しい器量と民からの信頼を示し、継母を放逐しようとする」
と。終盤はまるで白雪姫が継母の強権に対抗する反乱者か、反体制派みたいな流れになっていましたが。
王の実子が白雪姫だけで女性でも継げる設定の世界線なら、そもそも家臣は「くっ……! 殺せない!」と良心の呵責を感じて悩む前段階で、逆臣になる葛藤を処理しなきゃいけないですよ……。
それで別に、白雪姫に君主の器量があろうとなかろうと、領民から支持されていようとなかろうと、実は関係ないんですよね。
最初から、ただ一人の後継者なので……。
斜めに見るには面白い作品でも
「これで、よく脚本や予算の許可出たな」
「『白雪姫』ではなく、全く別の完全新作でやればよかったのに」
と思わずにはいられません。
PROFILE
三崎 裕美子 | 腐女子 / 総統
1980年生まれ。北海道帯広市出身|釧路→新橋のサラリーマン(港区女子)→などを経て基本帯広で働く腐女子。「総統」と呼ばれた女。しかしてその実体は、身の回りの幸せ(美味しいご飯・趣味・脳内妄想など)で足るを知る小市民。十勝の観光文化検定(とかち検定)上級合格。同年生まれのハリー・ポッター氏が通うホグワーツ・スリザリン寮に組み分けされたかったゲラート・グリンデルバルド信奉者。
